息をかぞえて

禅・こころとからだ

善悪はポイントカードのように

トランプと金正恩の握手、いざ目にするとやはりビックリでした。韓国の大統領とのツーショットも信じられませんでしたが、それ以上のインパクト。文大統領は以前から「融和路線」の印象があったけど、トランプは「アメリカ最後の大統領\(^o^)/ 」と揶揄されてきた男。とにかく好戦的! 言葉が乱暴! 数々の問題発言に「第三次世界大戦はコイツが起こすのでは?」と危惧した人も多いと思います。

生い立ちはずいぶん違うでしょうが、トランプと金正恩、「危険な独裁者」のイメージで見られているという意味では、似たもの同士ですね。もっと言えば「悪人」です。

そんな「世界を代表する悪人」のふたりが、「対話」という平和的な選択をしたことへの驚き、意外性。中国やロシアの動き、今後日本が受ける影響など、お花畑的な平和が待ってるとは思いませんが、悲観的な予測は政治評論家のみなさんにまかせて、とりあえず僕は今日の出来事を喜びたいと思います。


何が正義で何が悪か、善悪の基準がはっきりしなくなって結構経ちます。立場が違ったり状況が変われば、善も悪もコロコロ変わる。さいきんでは「ウソだとバレても居直ればいい」みたいな考えかたも、わりと普通になってきてる気がします。なんか感覚が麻痺してきてますよね。

こういう時、相手のペースに巻き込まれず正気を保つには、「昔の偉い人」を参考にするのが良いのでは?と僕は思います。「今の時代の常識」からなるべく遠くにいる人たち。

聖徳太子とかね、孔子とか。ガンジーキング牧師でもいいですけど。

僕は坐禅をやったり、カトリック坐禅会に通い、聖書にも興味を持つようになったので、禅でよしとされてること、ブッダやキリストがよしとしていたことを基準に、善悪の判断をするようになってきていると思います。彼らのことば全てを実行するのは無理ですけど(´・ω・`)

なので「言ってることとやってることが違う」状況はこれからも続くと思いますが、少しでもその差がちぢまればいいな、とも思ってます。できそうなやつからやっていく。悪い行ないよりは、善い行ないを。


以前ある編集者に「お前の原稿は、性善説でまとめるワンパターンだな」と笑われたことがありますが、いまは性善説で何が悪い?と思いますね。

 

「善」も「悪」も相対的な概念で、だから人間に「性善説」も「性悪説」もないんです。善を選べば善になるし、悪を選べば悪になる。それで僕は善を選びたいので善を選ぶ、それだけのことです。その時の善悪の基準は、くりかえしになりますが、僕の場合は禅や仏教、キリスト教のそれが基準になりつつあると思います。あとヨーガもやってるからヴェーダヒンドゥー教もか。

要は「命をたいせつにする」とか「自分にも他人にも苦しみを与えないようにする」とか、当たり前といえば当たり前のことばかりで。やって気持ちのいいこと、人に喜ばれること。昔の人は今より「命」や「自然」に近かったぶん、シンプルだなーって思います。


これは坐禅をやってるうちに出てきた感覚で、いきなり現代に飛びますが、「善い行ない」も「悪い行ない」も「ポイントカードみたいだなあ」って思うんですよね。やればやるだけ「善ポイント」や「悪ポイント」がたまっていく。一定数たまると、善人になったり、悪人になる。

それは人相や雰囲気としても現れ、結果好かれたり、嫌われるようになったり。まあこれって、仏教やヨーガ(の母体であるヒンドゥー教)の「業(ごう)」とか「カルマ」の発想だと思うんですけど、そういうものを実感として感じるようになってきた。まわりの人を見ていても。

 

トランプも金正恩も、パブリックイメージとしての「悪ポイント」は相当たまってると思うんですけど、今回のように善い行ないをすれば、「善のポイント」もたまると思うんです。ポイントカードと一緒で、1ポイントや2ポイントじゃ何もできませんし、今まで貯めてきた悪のポイントを消化していく必要もあると思いますけど。

ウソをつくのもそうだけど、悪いことばかりしてるといい加減イヤになりますよ。頭と心はごまかせても、最後は体が音を上げます。


善悪のポイントが加算され、いずれ精算される仕組みは、万人に共通な気がします。だからなるべく善い行ないを。

まだ「なんとなくそう思う」レベルで「断言」まではできませんけど。自分で試して、これからの人生で証明していければいいなあと思っています。

 

相撲の勝ち星にたとえるなら「8勝7敗」くらいでいいから、日々の暮らしを善い行ないで勝ち越せるようになりたいですね。

 

焦るのは心、安らぐのも心。

昨日のことですが、今晩から泊りがけの予定だった取材(2年ごしの悲願!)が延期となり、拍子ぬけしたような、ホッとしたような気分になりました。期せずして一日フリーの休日に。

 

そのせいか今朝は余裕を持ってすわることができました。ふだんは坐ってる時も、なんだかんだその後の予定を気にしてるんですね。「10時前には家を出なきゃ、プリントもしなきゃ、シャワーも浴びなきゃ」とか。「来週までに原稿書かななきゃ、でも土曜はヨーガも行かなきゃー」とかね。そのたびに心がピクッと反応し、体がじりじりムズります。

「なあ、ちょっと中断して、プリントだけでもしとこうぜ?」

しんせつな心の声がします。その正体は「あー退屈退屈、坐禅なんてやめようぜ( ´Д`)」って自我の抵抗なんですけどね。。。

 

自我はじっとしてるのが苦手というか、常に動こうとしますからね。無駄なことがだいきらい。

あとは不安もあるかな? 退屈というよりもね。根拠のない、うっすらとした不安? みんな多かれ少なかれ、心のどこかにあると思います。

 

自我(「私」という思い)は常に不測の事態を予測し、それに備えて動こうとする。その働き自体はわるいことではないけど(生きていくのに必要)、取り越し苦労で終わることも多々あるので、いちいち相手にしてもいけないんですよね。

たとえば外出先で「カギかけたっけ?」とか「ガスの元栓しめたっけ?」とか、ふと思い出す時のような? 経験的に、こういう時って十中八九セーフなんですけど、一度気になりだすと居ても立ってもいられなくなるというか。心ざわざわ、体ムズムズ、ね?

この時も戸じまりや火の元に問題はなくて、何か他の理由で不安になってることが多いと思います。だからたとえば目の前で本当に大変なことが起きたり、逆にすごくラッキーなことが起きたりすると、ぜーんぶふっ飛んじゃうんですよね。さっきまでのことは全部忘れて、新しい出来事にかじりついてる。戸じまり? してきたわ!

 


ほとぼりが冷めると、また何となく不安になるので、新たな「心配の種」を探し始めます。これは「心配」に限らないかもですね。場合によっては「期待」とか「熱中」といった一見ポジティヴな形をとるかもしれない。今日の僕みたいな「仕事」に「気合い入れて臨む!」といったポジティヴな行為にも、「心の底にある不安」から目を背ける、現実逃避な側面があるのかもしれません。ワーカホリックで、休みの日は何していいかわからなくなる(僕みたいな)タイプの人は、「仕事に逃げてない? やけくそになってない?」って、一度確かめた方がいい。ネガティヴの裏返しとしてのポジティヴ? ちょっとしたことで裏返り、またネガティヴに変わりますから。

 

キーワードは「焦燥感」だと思うんですよね。ざわざわジリジリあせる心。何するにせよ、焦る気持ちから行動を起こしてないか? せかされるように、追い立てられるように。それが仕事であれ、恋愛であれ、老後の計画であれ。

今の時代、社会全体が「焦り」を原動力に動いてるようなところもありますし。

他人と比較させて、自分にないものを求めさせて。もっともっと、まだまだだ。おいコラそこ早くしろ!(じっさいの言い方はもうちょっとマイルドですけど)

僕自身、受験→就職→独立と、人生の大半を焦燥感にかられて生きてきた気がします。常に遅れを取ってるようで、歩く速度もムダに早い(笑)。坐禅や瞑想を行なうようになってそれが自覚できるようになり、焦りの正体も見えてきましたが、そこから完全に解放されるわけでもないのが悩ましいところです(´・ω・`)

 

ただ、心ってやつは、刺激を受けて「波立つ」と焦りますが、「無風状態」だと安らぐんですよね。最近わかってきたのは、心は「海」みたいな性質をもってて、呼吸が落ち着いてくると「波」が小さくなり、それが進むと「凪(なぎ)」となる。平らで、なだらかな状態。ここまではゴロ寝でリラックスとかでも可能と思いますが(とくに技術はいらない!)、禅や瞑想で「無風状態」を推し進めると、心がどんどん広くなって、「海の面積」が拡大していく感覚が出てきます。うみはひろいなおおきいなー、的な? わかりにくいか。まあ、頭の中がゴチャゴチャと混線状態になっても、その影響を受けにくくなるというか(ちょっと絵にしてみました。ピンクのモジョモジョが「ゴチャゴチャの頭の中」、ブルーの水面が「凪いだ心」です。ふつうは頭の中がゴチャゴチャすると、心の海もつられて荒れるものですが、この人の心は凪いでいます。頭の影響を受けてない)。

 

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思いや考えが次々と浮かんでくるのはしょうがないです。どうやらそれは止められない。僕も坐禅を始めたころは「雑念を頭から追い出す」方向性の指導を受け、「脳内の雑念ゼロ!」めざして頑張ってたけど、当時の(頭も心もグチャグチャすぎた)僕に有効な手段だったとしても、いつまでも続ける方法ではないと思います。あるていど修行が進んだら「雑念を見張る」より「心をひろげる」方が良い。

そうすることで、次々と浮かんでくる思いがゴチャゴチャ騒ぎを起こしても、いちいち反応しなくなる。振り回されなくなる。心は凪いだ広い海。ジリジリとした焦燥感が起こらなくなります。起きても遠くに感じられるようになる。少なくとも坐禅や瞑想中は。で、ここからが大事だと思うのですが、この凪いだ状態は、せわしない日常の時間にも「はみ出してくる」気がします。本当、すこしずつジワジワですけど。

 

心をひろげることは、心の波をしずめることで、呼吸をおだやかにしていくことです。

 

 

人って、安らぎを求めようとして動き回り、そのせいで焦ってるのかもしれませんね。

 

 

寝ても覚めても。

ライターの仕事で対談の取材。伝統芸能の先生とスポーツ選手の顔合わせでした。

 

伝統芸能の先生が瞑想をやっているとのことで、私も体験。ほの暗く静かな中で、赤、黄、青、紫、線香花火のような光がチロチロ見えてきました。富山湾を泳ぐホタルイカのようです? こういうことはたまにあります。

後で先生に告げると、「あんたすごいよ!」とおほめの言葉。

何が「すごい」かは覚えてませんが、うれしかったですね。だいたいそんなところで目が覚めました。


夢だったという(´・ω・`)

 

さいきんは夢の中でも瞑想するようになったようで、でもそれなら起きてる時にもっと坐れよと思いますね。ヴィパッサナー瞑想の合宿後、「朝晩1じかんずつ坐るぞ!」とか息巻いてたのに全然なので。

 

でもね、夢の中での瞑想が、起きてる時のそれと同じ視点だったのは貴重な発見でしたね。

起きてる時、夢を見てる時、通底している意識があるんだなあと実感できたので。あとは「熟睡でブラックアウトしてる時」が加われば最強ですね。この時の意識に気づけば、24時間マインドフルネスです?

 

荘子の「胡蝶の夢」でしたっけ? 蝶として飛んでたらそれが夢で、目が覚めた荘子が「おれが蝶の夢をみていたのか? それとも今、蝶がおれの夢をみているのか?」と問いかけるという。

同じものが蝶として舞い、俺として「?」を浮かべてるんでしょうね。同じとこからみている。

 


これね、けさ夢で見たのをすっかり忘れてたのを、瞑想してる時に思い出したんですよ。

僕はよく夢を見て、いつもだいたい忘れてしまうのですが、これも「忘れる」というより「目が覚めて、自意識が前面に出てきてる」だけなのかもしれません。

だから坐禅や瞑想で自意識が弱くなると、またひょこっと出てくる。他の記憶と同様、下の方に沈んでたやつが。

 

寝ても覚めても、同じところでみてるんでしょうね。

 

結跏趺坐できた!

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坐禅を始めてもうすぐ10年になりますが、結跏趺坐ですわれるようになりました。

 

これ、基本のすわりかたなので、みんな脚が痛いの我慢して、ここから始めるのが普通なのでしょうが(笑)。

 

僕、足腰の関節が固すぎて、ガマンもなにも、組めなかったんですよね。片方の足を乗せたら、もう片方を上げることができなかったの。

 

無理矢理乗せたらマサ斉藤の監獄固めみたいになって、即ギブアップでした! 骨がきしんで坐禅どころじゃないですよ! 痛いのなんのって!

 

結跏趺坐が組めるようになったのはヨーガのおかげなんですけどね。禅ではすわりかたの指導まではしないから。

 

塩澤賢一先生の教室で2〜3年かけて、さまざまなアーサナをじっくりやって、スカアーサナ(安楽坐)で徐々に足腰を慣らしていって。

 

まだ不恰好で、股関節と膝裏にかるい引きつれは感じますが、なんとか組めるようになりました。

 

10年前からは想像もできないことです。

 

まだまだ股関節は固く、開脚も満足にできないけど、身体の柔軟性もずいぶんマシになってきています。ほんと塩澤先生さまさまですわ。

 

組むまでは阿鼻叫喚の結跏趺坐でしたが、組めるようになると、これ、すわりやすいですよ。一番すわりやすい。

 

足腰が最適な形で折りたたまれるというかね。無駄なくピッタリ収納される。「三角錐」のような、最小化された安定感がうまれるようです。ちょっと別次元ですね。

 

スカアーサナだと底辺が広すぎるし、正座(ヴァジュラアーサナ)だとちと狭い。もちろんそれぞれに長所もあるでしょうが、結跏趺坐、ヨーガでいうところのパドマアーサナ(蓮華坐)とくらべると、ものたりなさを感じるようになってきます。

 

あと、両足を組むことで、組んだ両脚に「メビウスの環」みたいな循環がうまれてきますね。組んだ足の部分が「結び目」になって、エネルギーや集中力の漏れを防いでいる? わかりやすく言えば、靴ひもをちゃんと結んだ時の、歩きやすい感じ。ゆるかったりほどけてると、なんか気持ち悪いし、うまく歩けないじゃないですか。

 

両脚がうまく決まると、底辺の三角形に持ち上げられる感じで背骨も立つようです。「ピンと伸ばそう!」とか力まなくても、そっと立つ感じ。

 

そう、結跏趺坐の形が決まると、肩も肘も、膝も首も、力まなくてよくなる気がします。からだ全体として「三角錐」ができてるから、部分的な関節関節をかためたり、のばす必要がなくなる。結果、自然に関節が(ほどよく)ゆるむ。

 

この状態になると、身体でその時起きている緊張や不快感がよーく見えるようになりますね。そしてそれら筋肉や内臓の緊張、骨格の偏りなどが、イライラや渇望といった「こころの状態」とも密接につながりあってることが見えてきます。たとえば「舌の奥の低温ヤケドのような不快感」は「味覚のダメージ」でもあり、それが「やけ食い」を呼んでいるとかね。傷口に塩をぬりこむように、食いたくもないのにまた食っちゃう。昨日はそのへんが見えました(´・ω・`)

 

 

坐禅や瞑想をするようになって、身体が固いこともあって、「すわりかたなんて何でもいい」と長く思っていたけど、たとえば「椅子に座って」と「結跏趺坐」をくらべると断然後者がいいです。

 

椅子に座っての瞑想や禅はラクちんだけど、何の縛りもないぶん逆に散漫になる気がしますね。雑念がやたら気になって、なかなか本番の瞑想や禅定に入れない。結果的に時間のムダかも。

 

結跏趺坐は雑念にも強いというか、思いが浮かんでも、それにひっぱられない「空白」としてすわれる気がします。

 

「ひと休み」みたいな休息感があるんですよね。力まず、構えず、ちっちゃなテントで休んでるような。そしてそれは外の世界を遮断しない。むしろ外との「一体感」が出てくる。外野の声や雑音が気にならなくなるというかな。耳をふさぐことなく。

 

禅を組んでる時の「静けさ」と現実世界の「喧騒」を、どう折り合いをつけようかと苦心してきたけど、この感じならイケるかもしれない。

 

「雨降らば降れ、風吹かば吹け」と詠んだ一休さんも、ここにいたのかな?なーんて思ってます。

 

心の自然な状態〜禅とヨーガと瞑想と

坐禅とハタヨーガと瞑想。禅は青木義子先生(聖心会/三宝禅)の指導のもと、ヨーガと瞑想は塩澤賢一先生(アーディー・ヨーガ)の指導のもとに行なっています。全体的な指導は禅が隔週で、ヨーガが週1〜2回。最近はヨーガと瞑想の方が優勢になっていますね。

 

すわって呼吸を見守るところでは坐禅も瞑想も(じつはヨーガも)いっしょなのですが、方法が少し違います。禅は半分眼をあけて、瞑想は軽く眼を閉じて。瞑想ではサンスクリット語マントラを(心で)唱えて、禅では何かを(心で)唱えたり唱えなかったり。

 

「ひとーつ、ふたーつ」と呼吸に合わせて数をかぞえる禅の数息観も、「ムー!」と全身全霊「無」になりきる「無字」の公案も、マントラの一種と言えなくもないなと最近は思っています。坐禅ひとすじ何十年、ヨーガひとすじ何十年の人には「それは違う!」と叱られそうだけど。

 

マントラもひとーつふたつもムーも、途中から音が波に溶けていきますからね。そこに行くまでの乗り物みたいなもので。

 

2月に参加したヴィパッサナー瞑想の合宿で、4日めと5日めに心身がドロドロに溶けて、クリーム色に空間と溶けあう体感を得たんですけど、「ああ、禅の只管打坐と目指してるところは同じなのかもな」と思いました。只管打坐でよくすわれてる時の体感と同類のものだったから。「(他に何もせず)ただひたすら坐る」の只管打坐と、「全身をくまなく意識(観察)していく」ヴィパッサナーでは、方法は真反対くらいに違うけど。

帰りのバスで一緒になった人たちに「禅とヴィパッサナーの違い」を聞かれた時も、「ルートが違うだけでめざすところは同じように思う」と答えました。たとえば東京から大阪に行きたいと思った時、新幹線で行くか飛行機で行くか。それくらいの違いで、乗り心地や見える景色、かかる時間は違うけど、結局大阪には着く。ただ、飛行機に乗ってる時に新幹線には乗れないように、どちらかをやっている時にはそれに専念した方がいいように思う、とも。

 

そこのところで、最近、禅よりもヨーガの瞑想に割く時間が多くて「禅がおろそかになってるなあ。ヨーガとどっちつかずになったら困るなあ」と悩んだりもしてるのですが(´-`).。oO

 

ヨーガの塩澤先生がよくおっしゃるのは「学者は違いを見つけるのが仕事でいいけど、われわれ実践者は違いよりも同じところを見つけて実践していくことが大事ではないのかな?」ということで、これは助けになっています。禅とヨーガの違いに目を向け悩むのではなく、どっちでもいいから、やる。行きがかり上でも、その時やることになっているものを。限られた時間の中で。

 

「さとり」や「解脱」といった「最終目標」的なものばかりめざしていると、どうしても頭でっかちになります。ブッダのさとりはどうだ、ヨーガの解脱と何が違う?とか。それって迷いを深めてるだけで。

 

知性で理解できる、論理で割り切れるものなら、そもそもすわる必要なんてないはずで。

 

それが禅であれ瞑想であれ、呼吸に戻れている時の心の状態、その自然な穏やかさに慣れていくことが、この先やっていくことなのかな?と思っています。日々の暮らしや仕事の中で、こころは喜怒哀楽、タテ、ヨコ、ナナメに振れますけどね。その波をならしていく。「禅か?ヨーガか?」と悩むことも、心の揺れのひとつかもしれません。

 

最近のすわり

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最近すわるのが楽になった気がします。ヴィパッサナー瞑想の合宿から1ヶ月。合宿ではいくつかの新たな身体感覚と意識の変容を経験することができたのですが、それらがならされ、まとまってきたのかもしれません。

 

それまでに塩澤先生のヨーガで「仕込み」ができていたのもデカいと思いますけどね。体の要所要所に「切れ込み」を入れておいたり、よく「こねて」おいたり。そこに合宿での長時間の瞑想という「負荷」をかけることで、体とこころが開いていった。

 

身体開発や柔軟性の獲得が目的ではないんですけどね。でもそれまでちゃんとできなかったスカアーサナ(安楽坐)がピッタリ床につくようになったり、半跏趺坐で1時間すわれるようになったり。脚腰でつくる「坐」が安定してくると、そこに乗る上半身もスッと伸びるようになるんですね。「背すじ伸ばさなきゃ!」みたいに力む必要がなくなる。浪費してたエネルギー(意識)を瞑想に回せる。長くとどまれるようになり、行けなかったとこまで行けるようになる。

 

スカアーサナにしても半跏趺坐にしても、坐禅や瞑想のすわりかたって「型」なんだと思います。最初のうちはきゅうくつで不自由なのですが、身体が姿勢になじむようになると(型にはまると)、「自由さ」が出てくる。その姿勢をとるだけで瞑想モードに入れるようになる。

 

武術の経験があるので推測できるのですが、これは武道や舞踊など「型」をもつ伝統文化に共通の特徴ではないかと思います。「守・破・離」、師からいただいた型を堅守しているうちに、それまでの個々の身体的なクセ、それに伴う思考のクセが破れ、そこから離れて動けるようになる。自由自在になる。それは「好き勝手」とは違った、全体の中での個として与えられる「自由」というか。ひとりよがりのそれと違って、持て余すことがない。自由でいて、おさまるところがあるというか。自律性がある。

 

僕は股関節がかたいので、以前は座布をはさんでの正座か、イスにすわってでもいいだろ?って思ってたんですけどね。今は脚をしっかり「組む」というか「結ぶ」がないと物足りない。瞑想が精彩を欠く気がします。靴ヒモをちゃんと結ばないと歩きづらいようなもので。ほどけてるとラクかもしれないけど、走ったりはできないじゃないですか?

 

禅や瞑想というと、目に見えない世界で起きてることで、とらえどころがないように思えますが、「型」を土台に「技術」として学べるところもあると思います。「脚を組む」ことも技術のひとつで、上達するコツもあって。

 

 

だいたい朝の早い時間にすわるのですが、最近の体感は鳥カゴの扉が開いて、中の鳥がはばたいていくような感じです。体が鳥カゴで、中の鳥がこころ。じわじわと空に広がっていく。その時意識はカゴにあるのか、鳥なのか、どっちともいえないですけど。

 

チュンチュン!チュンチュン! すずめの群れも駆け抜けていきます。

 

戻ってくると、こころは散歩を終え、鳥カゴは掃除されている感じがします。

 

生活の中で固着しがちな心身を一時的にほどき、こころと体それぞれが休む。

 

禅で問題とされている「わたし」と「体」の同一視(「私のこの体!」「この体が私だ!」といった思い)、肉体への執着もほどけていけばいいなと思ってます。

 

「心の闇」は暗くない

東京はまさかの雪。変わりやすい天気が続いています。晴れたりくもったり雨がふったり。こころも天気みたいだなとよく思います。ゆううつな曇り空が続くと「鬱」ということになるのでしょうか。ずっと晴れだと「躁」なのかな。晴れたり曇ったりでちょうどいいのかもしれません。

 

明るくなったり暗くなったりする「こころ」ですが、「心の闇」とか言われだしたのはいつ頃からでしょう?  14歳の少年が連続猟奇殺人を犯したサカキバラ事件(1997年)以降? 戦後数十年では前例のない出来事だったので、多くの人々に大きな衝撃と深い傷を与えたと記憶しています。「まさか子どもが?」と。

 

常識的な理解を超えていた彼の行動に、得体の知れぬ気味悪さを感じ、その内面を「闇」と表現したのなら、よくわかります。僕も同じように感じ、「心の闇」という言葉を受け入れてきたのだと思います。

 

「普通の人」によるむごい事件が増え(あるいはそのように報道され。実際はいつの時代もそうだったのかもしれませんが)、「一部の人」がかかるものだった鬱病などの精神疾患も流行し、この20年で「心の闇」という言葉も一般化したように思えます。「病み」とか「病んでる」とかもね。ヤミつながりで。

 

明るそうな子が「病んでます」とか「闇抱えてます」とか。今や普通の光景というか。

 

もちろん、闇の「暗度」は人によって違うと思います。それこそ犯罪まで行ってしまう人。継続的な治療が必要な人。一時的にハマってるだけの人。繊細すぎて傷つきやすいだけの人。

 

僕も闇は深い方で、心の暗がりに怯えていることが多かったと思います。神経質で他人や社会への攻撃性が強く、それが高じて自己破壊に向かう。一見おとなしそうに見えるんですけどね。まさに「闇」だわな(´・_・`)

 

自分で自分をコントロールできなくてね。内側からとり殺されるような衝動。大好きなはずの人やお世話になっている人に対して、ひどいことを考えてしまったり。してしまったり。10代以降、20〜30代が一番きつかった。

 

「オレの中、いったいどうなってんだ!」って思いますよね。得体の知れない何かが渦を巻いてるようで。「悪意」とか「狂気」とか名づけてもいいけど、それだけじゃ何も解決しない。

 

胸に穴があいている。風が吹いている。焼けつくようにヒリヒリしたり。中を覗こうにも怖くて見れない。痛いのきらいだし。まぎらわそうと酒や人肌に溺れて。ますます溺れて、底なしの闇に沈んでいく。。。

 

 で、いろいろ省きますけど、禅や瞑想の経験をへて、「心の闇」って言うけど決して「真っ暗」でもないし「穴があいてる」わけでもないんだとわかってきました。

 

自分の心を直視せず、目をそむけているから、「見えてなかった」だけの話で。それが「真っ暗に見えていた」だけで。

 

そのひとつひとつは「思い」だったり「記憶」だったり「感情」だったり。それらに伴う「感覚」だったり。得体の知れない「心の闇」とやらが存在してるわけではない。

 

「心の闇」って、「ずっと目を背けてる思いや感情、それに伴う感覚」のことなんだと思います。目を向ければ見えるんです。見えるということは「明るい」ということです。それはもう闇ではない。

 

自分に目を向ける。ノートに思いを書き出すとかの方法も悪くないけど、経験上、限界がある気がします。自我で自我を追ってるわけですからね。カウンセラーとの対話や禅、瞑想の方が「自分がよく見える」と思います(禅や瞑想も「自分以外の視点」から自我や思いが「見えてくる」ものだと思います)。

 

たしかにね。見るに耐えないおぞましい思い、感じきれないほどの激しい憎悪、それはあるでしょう。僕とかはまだ背負ってるものも小さかったり、手助けしてくれる人にも恵まれていたから、「見る」ことができたのかもしれない。

(サカキバラ氏が子供の頃に描いた絵とかみると、身の毛がよだつというか、それこそ「闇深いわ」と思います。こいつに生まれてきてたら大変だったろうなと。でもそれにしたって「闇」というよりは「業(行為)」というか「思い」や「感情」「感覚」のかたまりで。覚悟を決めて向き合えば、ほどいていくことは可能だと思います。手記出して目立ちたいとかじゃなくってね。あれは自分から逃げ続けてるだけですよね)

 

 

禅や瞑想で訪れる「闇」もあって、そこは真っ暗というよりはほの暗くて、あたたかい感じがします。攻撃性や衝動、ドロドロした思いもそこからわいてくるけど、逃げずにいれば(呼吸に気づいていることが命綱になると思います)、むこうから去っていく。静けさの中に散っていく。しつこいやつはストーカーのように何度も出てくるけど。 でも最近パワー落ちてきてる気もするな。すわることで削れてきてるのかな?

  

闇そのものは、こわくもおぞましくもないんですよね。

 

(修行が進むと「魂の暗夜」なるものが訪れるという話もあります(キリスト教神秘主義者の十字架の聖ヨハネなど。ヴィパッサナー瞑想のマハーシ・サヤドーの本にも似た記述がありました)。この「闇」は虚無感に支配されているようだから、闇も「あたたかい」だけじゃないみたいですけどね)