息をかぞえて

禅・こころとからだ

寝ても覚めても。

ライターの仕事で対談の取材。伝統芸能の先生とスポーツ選手の顔合わせでした。

 

伝統芸能の先生が瞑想をやっているとのことで、私も体験。ほの暗く静かな中で、赤、黄、青、紫、線香花火のような光がチロチロ見えてきました。富山湾を泳ぐホタルイカのようです? こういうことはたまにあります。

後で先生に告げると、「あんたすごいよ!」とおほめの言葉。

何が「すごい」かは覚えてませんが、うれしかったですね。だいたいそんなところで目が覚めました。


夢だったという(´・ω・`)

 

さいきんは夢の中でも瞑想するようになったようで、でもそれなら起きてる時にもっと坐れよと思いますね。ヴィパッサナー瞑想の合宿後、「朝晩1じかんずつ坐るぞ!」とか息巻いてたのに全然なので。

 

でもね、夢の中での瞑想が、起きてる時のそれと同じ視点だったのは貴重な発見でしたね。

起きてる時、夢を見てる時、通底している意識があるんだなあと実感できたので。あとは「熟睡でブラックアウトしてる時」が加われば最強ですね。この時の意識に気づけば、24時間マインドフルネスです?

 

荘子の「胡蝶の夢」でしたっけ? 蝶として飛んでたらそれが夢で、目が覚めた荘子が「おれが蝶の夢をみていたのか? それとも今、蝶がおれの夢をみているのか?」と問いかけるという。

同じものが蝶として舞い、俺として「?」を浮かべてるんでしょうね。同じとこからみている。

 


これね、けさ夢で見たのをすっかり忘れてたのを、瞑想してる時に思い出したんですよ。

僕はよく夢を見て、いつもだいたい忘れてしまうのですが、これも「忘れる」というより「目が覚めて、自意識が前面に出てきてる」だけなのかもしれません。

だから坐禅や瞑想で自意識が弱くなると、またひょこっと出てくる。他の記憶と同様、下の方に沈んでたやつが。

 

寝ても覚めても、同じところでみてるんでしょうね。

 

結跏趺坐できた!

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坐禅を始めてもうすぐ10年になりますが、結跏趺坐ですわれるようになりました。

 

これ、基本のすわりかたなので、みんな脚が痛いの我慢して、ここから始めるのが普通なのでしょうが(笑)。

 

僕、足腰の関節が固すぎて、ガマンもなにも、組めなかったんですよね。片方の足を乗せたら、もう片方を上げることができなかったの。

 

無理矢理乗せたらマサ斉藤の監獄固めみたいになって、即ギブアップでした! 骨がきしんで坐禅どころじゃないですよ! 痛いのなんのって!

 

結跏趺坐が組めるようになったのはヨーガのおかげなんですけどね。禅ではすわりかたの指導まではしないから。

 

塩澤賢一先生の教室で2〜3年かけて、さまざまなアーサナをじっくりやって、スカアーサナ(安楽坐)で徐々に足腰を慣らしていって。

 

まだ不恰好で、股関節と膝裏にかるい引きつれは感じますが、なんとか組めるようになりました。

 

10年前からは想像もできないことです。

 

まだまだ股関節は固く、開脚も満足にできないけど、身体の柔軟性もずいぶんマシになってきています。ほんと塩澤先生さまさまですわ。

 

組むまでは阿鼻叫喚の結跏趺坐でしたが、組めるようになると、これ、すわりやすいですよ。一番すわりやすい。

 

足腰が最適な形で折りたたまれるというかね。無駄なくピッタリ収納される。「三角錐」のような、最小化された安定感がうまれるようです。ちょっと別次元ですね。

 

スカアーサナだと底辺が広すぎるし、正座(ヴァジュラアーサナ)だとちと狭い。もちろんそれぞれに長所もあるでしょうが、結跏趺坐、ヨーガでいうところのパドマアーサナ(蓮華坐)とくらべると、ものたりなさを感じるようになってきます。

 

あと、両足を組むことで、組んだ両脚に「メビウスの環」みたいな循環がうまれてきますね。組んだ足の部分が「結び目」になって、エネルギーや集中力の漏れを防いでいる? わかりやすく言えば、靴ひもをちゃんと結んだ時の、歩きやすい感じ。ゆるかったりほどけてると、なんか気持ち悪いし、うまく歩けないじゃないですか。

 

両脚がうまく決まると、底辺の三角形に持ち上げられる感じで背骨も立つようです。「ピンと伸ばそう!」とか力まなくても、そっと立つ感じ。

 

そう、結跏趺坐の形が決まると、肩も肘も、膝も首も、力まなくてよくなる気がします。からだ全体として「三角錐」ができてるから、部分的な関節関節をかためたり、のばす必要がなくなる。結果、自然に関節が(ほどよく)ゆるむ。

 

この状態になると、身体でその時起きている緊張や不快感がよーく見えるようになりますね。そしてそれら筋肉や内臓の緊張、骨格の偏りなどが、イライラや渇望といった「こころの状態」とも密接につながりあってることが見えてきます。たとえば「舌の奥の低温ヤケドのような不快感」は「味覚のダメージ」でもあり、それが「やけ食い」を呼んでいるとかね。傷口に塩をぬりこむように、食いたくもないのにまた食っちゃう。昨日はそのへんが見えました(´・ω・`)

 

 

坐禅や瞑想をするようになって、身体が固いこともあって、「すわりかたなんて何でもいい」と長く思っていたけど、たとえば「椅子に座って」と「結跏趺坐」をくらべると断然後者がいいです。

 

椅子に座っての瞑想や禅はラクちんだけど、何の縛りもないぶん逆に散漫になる気がしますね。雑念がやたら気になって、なかなか本番の瞑想や禅定に入れない。結果的に時間のムダかも。

 

結跏趺坐は雑念にも強いというか、思いが浮かんでも、それにひっぱられない「空白」としてすわれる気がします。

 

「ひと休み」みたいな休息感があるんですよね。力まず、構えず、ちっちゃなテントで休んでるような。そしてそれは外の世界を遮断しない。むしろ外との「一体感」が出てくる。外野の声や雑音が気にならなくなるというかな。耳をふさぐことなく。

 

禅を組んでる時の「静けさ」と現実世界の「喧騒」を、どう折り合いをつけようかと苦心してきたけど、この感じならイケるかもしれない。

 

「雨降らば降れ、風吹かば吹け」と詠んだ一休さんも、ここにいたのかな?なーんて思ってます。

 

心の自然な状態〜禅とヨーガと瞑想と

坐禅とハタヨーガと瞑想。禅は青木義子先生(聖心会/三宝禅)の指導のもと、ヨーガと瞑想は塩澤賢一先生(アーディー・ヨーガ)の指導のもとに行なっています。全体的な指導は禅が隔週で、ヨーガが週1〜2回。最近はヨーガと瞑想の方が優勢になっていますね。

 

すわって呼吸を見守るところでは坐禅も瞑想も(じつはヨーガも)いっしょなのですが、方法が少し違います。禅は半分眼をあけて、瞑想は軽く眼を閉じて。瞑想ではサンスクリット語マントラを(心で)唱えて、禅では何かを(心で)唱えたり唱えなかったり。

 

「ひとーつ、ふたーつ」と呼吸に合わせて数をかぞえる禅の数息観も、「ムー!」と全身全霊「無」になりきる「無字」の公案も、マントラの一種と言えなくもないなと最近は思っています。坐禅ひとすじ何十年、ヨーガひとすじ何十年の人には「それは違う!」と叱られそうだけど。

 

マントラもひとーつふたつもムーも、途中から音が波に溶けていきますからね。そこに行くまでの乗り物みたいなもので。

 

2月に参加したヴィパッサナー瞑想の合宿で、4日めと5日めに心身がドロドロに溶けて、クリーム色に空間と溶けあう体感を得たんですけど、「ああ、禅の只管打坐と目指してるところは同じなのかもな」と思いました。只管打坐でよくすわれてる時の体感と同類のものだったから。「(他に何もせず)ただひたすら坐る」の只管打坐と、「全身をくまなく意識(観察)していく」ヴィパッサナーでは、方法は真反対くらいに違うけど。

帰りのバスで一緒になった人たちに「禅とヴィパッサナーの違い」を聞かれた時も、「ルートが違うだけでめざすところは同じように思う」と答えました。たとえば東京から大阪に行きたいと思った時、新幹線で行くか飛行機で行くか。それくらいの違いで、乗り心地や見える景色、かかる時間は違うけど、結局大阪には着く。ただ、飛行機に乗ってる時に新幹線には乗れないように、どちらかをやっている時にはそれに専念した方がいいように思う、とも。

 

そこのところで、最近、禅よりもヨーガの瞑想に割く時間が多くて「禅がおろそかになってるなあ。ヨーガとどっちつかずになったら困るなあ」と悩んだりもしてるのですが(´-`).。oO

 

ヨーガの塩澤先生がよくおっしゃるのは「学者は違いを見つけるのが仕事でいいけど、われわれ実践者は違いよりも同じところを見つけて実践していくことが大事ではないのかな?」ということで、これは助けになっています。禅とヨーガの違いに目を向け悩むのではなく、どっちでもいいから、やる。行きがかり上でも、その時やることになっているものを。限られた時間の中で。

 

「さとり」や「解脱」といった「最終目標」的なものばかりめざしていると、どうしても頭でっかちになります。ブッダのさとりはどうだ、ヨーガの解脱と何が違う?とか。それって迷いを深めてるだけで。

 

知性で理解できる、論理で割り切れるものなら、そもそもすわる必要なんてないはずで。

 

それが禅であれ瞑想であれ、呼吸に戻れている時の心の状態、その自然な穏やかさに慣れていくことが、この先やっていくことなのかな?と思っています。日々の暮らしや仕事の中で、こころは喜怒哀楽、タテ、ヨコ、ナナメに振れますけどね。その波をならしていく。「禅か?ヨーガか?」と悩むことも、心の揺れのひとつかもしれません。

 

最近のすわり

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最近すわるのが楽になった気がします。ヴィパッサナー瞑想の合宿から1ヶ月。合宿ではいくつかの新たな身体感覚と意識の変容を経験することができたのですが、それらがならされ、まとまってきたのかもしれません。

 

それまでに塩澤先生のヨーガで「仕込み」ができていたのもデカいと思いますけどね。体の要所要所に「切れ込み」を入れておいたり、よく「こねて」おいたり。そこに合宿での長時間の瞑想という「負荷」をかけることで、体とこころが開いていった。

 

身体開発や柔軟性の獲得が目的ではないんですけどね。でもそれまでちゃんとできなかったスカアーサナ(安楽坐)がピッタリ床につくようになったり、半跏趺坐で1時間すわれるようになったり。脚腰でつくる「坐」が安定してくると、そこに乗る上半身もスッと伸びるようになるんですね。「背すじ伸ばさなきゃ!」みたいに力む必要がなくなる。浪費してたエネルギー(意識)を瞑想に回せる。長くとどまれるようになり、行けなかったとこまで行けるようになる。

 

スカアーサナにしても半跏趺坐にしても、坐禅や瞑想のすわりかたって「型」なんだと思います。最初のうちはきゅうくつで不自由なのですが、身体が姿勢になじむようになると(型にはまると)、「自由さ」が出てくる。その姿勢をとるだけで瞑想モードに入れるようになる。

 

武術の経験があるので推測できるのですが、これは武道や舞踊など「型」をもつ伝統文化に共通の特徴ではないかと思います。「守・破・離」、師からいただいた型を堅守しているうちに、それまでの個々の身体的なクセ、それに伴う思考のクセが破れ、そこから離れて動けるようになる。自由自在になる。それは「好き勝手」とは違った、全体の中での個として与えられる「自由」というか。ひとりよがりのそれと違って、持て余すことがない。自由でいて、おさまるところがあるというか。自律性がある。

 

僕は股関節がかたいので、以前は座布をはさんでの正座か、イスにすわってでもいいだろ?って思ってたんですけどね。今は脚をしっかり「組む」というか「結ぶ」がないと物足りない。瞑想が精彩を欠く気がします。靴ヒモをちゃんと結ばないと歩きづらいようなもので。ほどけてるとラクかもしれないけど、走ったりはできないじゃないですか?

 

禅や瞑想というと、目に見えない世界で起きてることで、とらえどころがないように思えますが、「型」を土台に「技術」として学べるところもあると思います。「脚を組む」ことも技術のひとつで、上達するコツもあって。

 

 

だいたい朝の早い時間にすわるのですが、最近の体感は鳥カゴの扉が開いて、中の鳥がはばたいていくような感じです。体が鳥カゴで、中の鳥がこころ。じわじわと空に広がっていく。その時意識はカゴにあるのか、鳥なのか、どっちともいえないですけど。

 

チュンチュン!チュンチュン! すずめの群れも駆け抜けていきます。

 

戻ってくると、こころは散歩を終え、鳥カゴは掃除されている感じがします。

 

生活の中で固着しがちな心身を一時的にほどき、こころと体それぞれが休む。

 

禅で問題とされている「わたし」と「体」の同一視(「私のこの体!」「この体が私だ!」といった思い)、肉体への執着もほどけていけばいいなと思ってます。

 

「心の闇」は暗くない

東京はまさかの雪。変わりやすい天気が続いています。晴れたりくもったり雨がふったり。こころも天気みたいだなとよく思います。ゆううつな曇り空が続くと「鬱」ということになるのでしょうか。ずっと晴れだと「躁」なのかな。晴れたり曇ったりでちょうどいいのかもしれません。

 

明るくなったり暗くなったりする「こころ」ですが、「心の闇」とか言われだしたのはいつ頃からでしょう?  14歳の少年が連続猟奇殺人を犯したサカキバラ事件(1997年)以降? 戦後数十年では前例のない出来事だったので、多くの人々に大きな衝撃と深い傷を与えたと記憶しています。「まさか子どもが?」と。

 

常識的な理解を超えていた彼の行動に、得体の知れぬ気味悪さを感じ、その内面を「闇」と表現したのなら、よくわかります。僕も同じように感じ、「心の闇」という言葉を受け入れてきたのだと思います。

 

「普通の人」によるむごい事件が増え(あるいはそのように報道され。実際はいつの時代もそうだったのかもしれませんが)、「一部の人」がかかるものだった鬱病などの精神疾患も流行し、この20年で「心の闇」という言葉も一般化したように思えます。「病み」とか「病んでる」とかもね。ヤミつながりで。

 

明るそうな子が「病んでます」とか「闇抱えてます」とか。今や普通の光景というか。

 

もちろん、闇の「暗度」は人によって違うと思います。それこそ犯罪まで行ってしまう人。継続的な治療が必要な人。一時的にハマってるだけの人。繊細すぎて傷つきやすいだけの人。

 

僕も闇は深い方で、心の暗がりに怯えていることが多かったと思います。神経質で他人や社会への攻撃性が強く、それが高じて自己破壊に向かう。一見おとなしそうに見えるんですけどね。まさに「闇」だわな(´・_・`)

 

自分で自分をコントロールできなくてね。内側からとり殺されるような衝動。大好きなはずの人やお世話になっている人に対して、ひどいことを考えてしまったり。してしまったり。10代以降、20〜30代が一番きつかった。

 

「オレの中、いったいどうなってんだ!」って思いますよね。得体の知れない何かが渦を巻いてるようで。「悪意」とか「狂気」とか名づけてもいいけど、それだけじゃ何も解決しない。

 

胸に穴があいている。風が吹いている。焼けつくようにヒリヒリしたり。中を覗こうにも怖くて見れない。痛いのきらいだし。まぎらわそうと酒や人肌に溺れて。ますます溺れて、底なしの闇に沈んでいく。。。

 

 で、いろいろ省きますけど、禅や瞑想の経験をへて、「心の闇」って言うけど決して「真っ暗」でもないし「穴があいてる」わけでもないんだとわかってきました。

 

自分の心を直視せず、目をそむけているから、「見えてなかった」だけの話で。それが「真っ暗に見えていた」だけで。

 

そのひとつひとつは「思い」だったり「記憶」だったり「感情」だったり。それらに伴う「感覚」だったり。得体の知れない「心の闇」とやらが存在してるわけではない。

 

「心の闇」って、「ずっと目を背けてる思いや感情、それに伴う感覚」のことなんだと思います。目を向ければ見えるんです。見えるということは「明るい」ということです。それはもう闇ではない。

 

自分に目を向ける。ノートに思いを書き出すとかの方法も悪くないけど、経験上、限界がある気がします。自我で自我を追ってるわけですからね。カウンセラーとの対話や禅、瞑想の方が「自分がよく見える」と思います(禅や瞑想も「自分以外の視点」から自我や思いが「見えてくる」ものだと思います)。

 

たしかにね。見るに耐えないおぞましい思い、感じきれないほどの激しい憎悪、それはあるでしょう。僕とかはまだ背負ってるものも小さかったり、手助けしてくれる人にも恵まれていたから、「見る」ことができたのかもしれない。

(サカキバラ氏が子供の頃に描いた絵とかみると、身の毛がよだつというか、それこそ「闇深いわ」と思います。こいつに生まれてきてたら大変だったろうなと。でもそれにしたって「闇」というよりは「業(行為)」というか「思い」や「感情」「感覚」のかたまりで。覚悟を決めて向き合えば、ほどいていくことは可能だと思います。手記出して目立ちたいとかじゃなくってね。あれは自分から逃げ続けてるだけですよね)

 

 

禅や瞑想で訪れる「闇」もあって、そこは真っ暗というよりはほの暗くて、あたたかい感じがします。攻撃性や衝動、ドロドロした思いもそこからわいてくるけど、逃げずにいれば(呼吸に気づいていることが命綱になると思います)、むこうから去っていく。静けさの中に散っていく。しつこいやつはストーカーのように何度も出てくるけど。 でも最近パワー落ちてきてる気もするな。すわることで削れてきてるのかな?

  

闇そのものは、こわくもおぞましくもないんですよね。

 

(修行が進むと「魂の暗夜」なるものが訪れるという話もあります(キリスト教神秘主義者の十字架の聖ヨハネなど。ヴィパッサナー瞑想のマハーシ・サヤドーの本にも似た記述がありました)。この「闇」は虚無感に支配されているようだから、闇も「あたたかい」だけじゃないみたいですけどね)

 

ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』

前回からの続きです。ヴィパッサナー瞑想の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話。心身の感覚と瞑想の仕組み、その関係性について初めて聞く話があったので(今後の修行に希望を与えてくれる話で、驚いたというか嬉しかったので)、その元ネタを知りたくて仏教や瞑想の本を調べている、という話でした。

 

いつも本を漁る時はアマゾンで調べて、まずは吉祥寺のジュンク堂書店に行きます。品揃え豊富だし、ベンチに座って立ち読みできるし。1000円以下の文庫や新書ならまだしも、専門書は2000円、3000円しますからね(>_<)

 

ただ一冊全部を読み切るのは「緩慢な万引き」みたいで気がひけるので、じっくり読みたい時は国会図書館へ。一度に3冊しか借りれないし、本が来るまで20〜30分かかるけど、国内の本はほぼ全てあります。

 

で、パラパラパラと元ネタ探しをしてたのですが、ハッと手が止まりました。

 

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ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』の一節。当初探していた情報とはまた違うのですが、それ以上にいまの僕に必要な言葉がありました。実はこの本、数年前に一度買ってて、ブックオフに売っちゃってたんですよね(´Д` )。「なんだ、そんなこと全部知ってらあ」とその時は思いました。

 

ティク・ナット・ハンのことも「マインドフルネスの人?」くらいの認識でしたが、臨済宗の禅僧だったんですね。僕も禅から探求を始めているので、親しみや信頼感もわいてきます。

 

 

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「心の解放(解脱)とは、 人生から逃避したりそれを台無しにすることではありません。仏教とは人生を否定する教えだとか、物質・感覚・認知・思いの形成・意識という五蘊の世界を超越することだという人が少なくありませんが、そうした主張は、いのちは無でありすべては無価値だと悟るために修行があるというのと同じです」 (p104)

 

いやあ耳が痛い。ついハマっちゃう落とし穴なんですよね。虚無主義ニヒリズム。すべては移ろい、人生に意味はない。いつか死ぬならさっさと消えたい。自分もすっかりハマってました。

 

「苦しみの原因は、人生や五蘊やあらゆるものの無我・縁起の性質ではなく、私たちの無智(無明)が不幸を生むのだということです。人は無常、無我、縁起こそがいのちの本質だと理解できずに、存在するものは変わらないと思いこみ、物事に執着します。(中略) 無常、無我、縁起を否定してしまうと、生きることは不条理で受け入れがたいものになるでしょう」(p105)

 

ティクさん、オレが見えてるのか? (;゚Д゚) くらいに、最近の僕、まさにそんな感じでした。「世の中どんどんおかしな方向に進んでいくなあ。おれも無駄に年とるだけだし。この先の人生、消化試合みたいなもんだ」と。

 

瞑想してる時やヨーガを教わってる時はいいんですよ。いのちに戻ってる実感がある。赤ん坊のころから変わってない感覚。みる、きく、ふれるがはっきり分かれてない、あたたかいぬくもり。

 

でもそこからまた日常に戻らないといけない。くたびれてきたこの体、この環境から逃げられない。40後半、相変わらずパッとしない。そろそろ先も見えてきた。世間の価値観からはどんどんズレていく。ひとり寂しさを感じている。

 

これを「無常」と勘違いしてたんですよね。なまじ瞑想とかしてるだけに「移り変わる世の中、はかない人の心がよく見えるのだ」くらいに思ってました。

 

自分で自分の目標を設定して、自分の独断で成功だの失敗だのの判断を下して。うまく行ってもいかなくても結果に執着して。そのつど「自分」が浮いたり沈んだり。それを「世界で起きていること」と錯覚している。

 

やってるのは全部「自我」で「無常」は何もしてないんですけどね(・ω・) ただ変わり続けてるだけで。人生がうまくいかないのを「無常」のせいにしてはいけない。

 

そしてそのことに気づいてないのが「無智」であり「無明」なんでしょうね。まさにティクさん言うところの「無智(無明)が不幸を生む」です。

 

 

むなしさを感じてるうちは、まだまだ自我が健在なのでしょう。「消化試合」がいざ始まると、勝ちに行ってるオレがいたり(´・_・`)

 

ティクさんの本でもう少し書けるかな? つづく、かもしれません。

 

「ブッダの瞑想」の元ネタは?

ブッダの瞑想」ことヴィパッサナー瞑想の合宿で気づいたこと、気になったことを書くにあたり、いくつか調べたいことがあったので、瞑想や仏教の本を読んでいます。日本ヴィパッサナー協会( S.N.ゴエンカ氏 )の他にも、ヴィパッサナーの流派って複数あるんですね。それぞれの流派や指導者で解釈が違い、面白いと思うと同時に疑問が深まったり。「結局、釈迦がやってた瞑想法って何だったの?」って。

 

どの流派(本)も「これがそうです!」とばかりにそれぞれの瞑想法と、根拠となる文献(経典)を挙げてくれてはいるのですが、どれも決定打に欠けるように思えます。それぞれの流派(著者)による「解釈」がまざっているというか。まあそれでいいというか、そうするしかないとも思いますけど。もともとの文献(経典)が釈迦の修行のすべてを網羅する形では残っていないようですし。そもそも現代のような「マニュアル本」の発想で記録されていないようだし。釈迦とその弟子の時代、「教え」は口伝えや謡(うた]の形式だったといいます。そうなると言葉を「理解」するというより、向き合った間合に漂うものや、音の持つ響きなどから、∑(゚Д゚)!!!と「気づく」かたちで「伝わった」教えもあるはず(以心伝心。質問に沈黙で応えたという「無記」もそのひとつだと思います)。

 

紀元前5世紀頃といわれる釈迦の時代から2500年以上経った現代、「現存する部分的な文献」を手がかりに「釈迦の修行」を再現しようとするなら、全体像として見えない部分、虫食いになっている空白部分は、やはり個人個人で、瞑想や八正道、戒の実践で起こる「気づき」をもって埋めていくしかないと思います(八正道や戒の厳密な実践は、出家しないと無理な気がしますが)。ヴィパッサナー諸流派の「それぞれの解釈」も、おそらくそういうプロセスを経て生まれてきたものだと思います。

「気づき」となると学問的には認められないでしょう。よくいえばインスピレーション、わるくいえば「論理の飛躍、破綻」ですし、「瞑想体験」という「100%の再現性がないもの」は事実(データ)として扱えない。そもそも瞑想の場である「意識」が科学的には「観察の対象外」です。

 

そうなると「(体験から得た)解釈」に誤りがないか、「客観的に」判断することはできないことになる。各自が「追体験」して「主観」で判断していくしかない。ただ何が「正しい」で何が「誤り」かという基準じたい言語化できないので、自分の主観が「正しい」かどうかは「瞑想をよくわかってる人」に確かめてもらうしかない。

 

それは結局「信頼できる指導者を持て」ということになるのかな。これまた主観的な。。。

 

 

そもそもの釈迦が「科学的に正しい」と証明された人ではないですからね。仏教という宗教行為を学問的に解釈しようとしたり、「科学的に証明された」とかのものさしを当てようとする方が「まちがってる」のかもしれない。

 

もちろん、自分が行なう行法の「元ネタ」である文献や経典には目を通しておくべきでしょう。漢訳や原典との比較もできるに越したことはないでしょう。

 

でもそれにも限度があるというか、文の解釈が目的になってしまったり、「文献にないものは受けつけない」みたいな原理主義になると、本末転倒な気がします。学者ならまだしも、行きすぎた学問的態度は、実践者にとってむしろ障害となる。すわらないことの口実にも。

 

いちばん良くないのは、頭で「わかって」しまうこと。知的理解で止まる。知的好奇心が一時的に満たされるだけ。

 

わからないこともあるけど、今はすわろうね(´・ω・)的な「大ざっぱさ」も大事だと思うんです。

 

いや、わからないからすわるんだよな。その答えは、ことばの中にはないはずで。

 

先日の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話の中にも、初めて聴く話がいくつかあり、「釈迦そこまで言ってたっけ? 元ネタは?」と思いました。合宿中、ずっとぐるぐるしてたな。そこで冒頭で書いたように瞑想や仏教の本をあたっているのですが、今のところ見つかっていません。

 

そのへんはゴエンカ氏の「瞑想体験」にもとづく「解釈」なのかな?と思いつつ、何かの文献に元ネタが見つかるといいなと思い、同時に「見つからなくても、講話と同様の『体験』ができればいいな」と思ってます。

 

 

 

前置きが長くなりました。本当は元ネタ探しで読んでいた本のなかに、当初の目的とは違う「気づき」をもたらす一冊があったので、その話をしたかったのです(・∀・) つづく。