息をかぞえて

禅・こころとからだ

Imagine no possessions?

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ジョン・レノン「イマジン」に"Imagine no possessions"という一節があります。「所有できるものはないのだと思いなさい」といったところでしょうか。歌の原案者といわれるオノ・ヨーコ風にいうなら。ヨーコさんの著書を見ると、幼いころに仏教を学んだとの記述もあります。他にも「ネコが話しかけてくる」「私は草に話しかける」など、なかなかぶっ飛んでるお方のようです。

 

さて「所有できるものはない」。そうですね。坐禅の後って、ふとした気づきが何かしらあります。すわってる最中は自我が起こりにくくなっているようで、そこで「ふだん自我とくっついてる価値観」が、はらりとはがれてるのかもしれないですね。

 

一歩町へ出るとまた自我で暮らしていくので、ベッタリと「我の強い人」にもどってしまうのですが。。。

でもわずかに違っている気もします。ガムテープでも一度はがしたら粘着力よわくなるじゃないですか? またくっつけられるけど、前ほどしっかりしてはいない。坐禅と日常生活の繰り返しで、自我というガムテープが何度もはがされていくのかもしれません。

 

「自分」という存在が前ほど「絶対」とは思えないので、それが損なわれた時に「自信をなくす」ことも減ってきてると思います。以前はささいなことでもドーンと落ち込んで、自意識過剰すぎました。

 

さて「イマジン」からの「所有」の話です。これは一昨日の坐禅明けの話なのですが「自我、つまり私という存在が思い込みの産物だとしたら、所有なんてできないよな」と。「自分」という所有者が、(社会生活を送るうえでの便宜的な)仮のものだとしたら、「自分のもの」という所有物もなくなるよなと。所有者がいないのだから。所有権とかもあくまで社会の契約上「だけ」の話で。

いや、実はひとつそのまえに「人は人を所有できないんだ」という別の気づきがありました。「イマジン」の"possessions"は物や土地、財産なども含む「所有、所持」全般を指していると思いますが、一昨日起きたのは「誰も他人を所有できないのだ」という気づき。これが今日の本題です。

 

たとえば恋愛でも、お互いの気持ちが相手だけに向いているうちは「相手をものにした」気分になっていると思います。その反対に「自分という存在を相手に捧げる」タイプの人もいるでしょう。いずれにしても「ひとつになっている」というか。心も体もひとつになれる、みたいな。

親が幼い子に対して抱く感情にも、これはあるでしょうね。ぐずったりもしますが、幼な子ってほぼ自分を全肯定してくれるから。「目に入れても痛くない」という言葉もあります。自分の体と同化できるくらいの気持ちなのでしょう。

 

自分よりも大切に思える誰かがいる。それはとても素晴らしいことで、そういう瞬間に出会うため、人は生きているのかもしれません。

 

この時の感動を忘れずに、変わっていく相手とか成長していく子供と、そのつど最適な関係を築いていければいいんだけど、なかなかむずかしいですよね(´Д` )。それは理想論で、現実は「一番良かった頃の相手」というキラキラした思い出にしがみついてしまう。思い出ありきで(今の)相手を見て、従来のやりかたで進めようとする。時間とともにうまくいかないことが増えてくる。え、なんで?となる。こんな人だと思わなかったと。そんな子に育てた覚えはないと!

それは相手を人というより物扱いしてるからというか、「オレだけのお前!」「ワタシだけのあなた!」といった思い込み、つまり「所有」の概念にとらわれているからではないか。

 

自分がやってる時は気づかないんですけど、やられる側になるとよくわかりますよね(笑)。「あなたのためを思ってって、それ自分のためだろ(´・_・`)」って。誰にも覚えがあると思います。そんなこと頼んだおぼえないぞって。

 

一度手に入れた相手を失なう恐怖もありますね。そのために相手を縛って、さらに失なう方向に進んだり(>_<)。子供の自立を阻む親もそうだな。

 

やっぱり「自分」という思いから起こる「所有」の概念のしわざだと思うんです。「この人は自分のものだから自由に扱っていい」と。「自分のやりかた」で。そうしてこちらの「自分」とむこうの「自分」がぶつかる時、衝突が起こる。

愛が憎しみに変わると「そっちがそういっただろう!」とか相手を「そっち」呼ばわりしたりね。もはや人あつかいしてないです(笑)。その時は自分も「こっち」になってるのですが。そこにはなかなか気づかない。

 

自分で自分を見るのって、できないというか普通の状態では難しいから。

 

坐禅はさいしょ呼吸に意識を向けることによって、ふだんベッタリくっついてる自我と距離をおくことができます。くり返される呼吸に命綱のようにつかまって「自我が起こるさま」を見ることができる。自我から離れることで、自分が見えてくる。

 

思い出したくもない、目を背けたくなるような自分も、わりと落ち着いて見られる気がします。

 

「変わったのは相手だけでなく自分もだなあ。いまも考えコロコロ変わってるもんなあ」とかね。ひと呼吸ごとに違った、矛盾した考えが浮かんでくるのを見ると「一貫した変わらない自分」なんてどこにいるの?って思います。さまざまな考えを都合よく「編集」して「理想の自分」をでっち上げてるだけじゃないのか?って。

 

自我の起こるさまを完全に見切れるようになると、タネがばれた手品のように、もう二度と自我にはダマされなくなるともいいます。「私が〇〇している」とはすべて錯覚だったと。思い込みの中にだけ「私」は存在していたと。

 

こうなるには「命綱」をうっかり手放す必要があるようです。まだできてないんですけどね。坐禅中、自我を手放してるつもりでも、呼吸や身体感覚に巧妙に「偽装」した自我にしがみついている。今度は呼吸や身体感覚に執着している。なんだかんだでまだ、自分を「所有」していたいのだろうなあ。全部手放すの、こわいもん。

 

 

 (追記) 

この命綱を手放せると「イマジン」の歌詞も「夢想家」のものではなくなるかもしれません。「自分」がなくなれば「天国」も「地獄」もなくなる。経験主体の自我がないのだから上下の区別も差別もなくなるはずです(完全な自我喪失を体験したわけではないので推測ですが)。

いっさいの自他の区別がなくなれば、我々(自分)の上にある「空(そら)」と我々の下にある「大地」、それらの境い目も消えてなくなる。そこから新たに世界を構築していくのが禅修行の後半戦だとも聞いています。

そうなった時「イマジン」という歌も、よく言われる「現実離れの甘い理想論」などではなく、全然違った聴こえかたをしてくるのかもしれません。ネコや草と話のできるヨーコさんのように。常識を信じて疑わない人には、怖い歌かもしれないですよ。

ウーフはウーフでできている

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練馬区ちひろ美術館でやっている、故・井上洋介先生の展覧会に行ってきました。子供の頃から読んでた「くまの子ウーフ」の原画をたくさん見ることができました。ウーフの絵が、青い色づかいのものが多くて意外でした。にこやかで、ゆかいで、とぼけてるけど、ブルーなんです。

 

ここからは物語の話になりますが、ウーフって「あそぶことが大すき。たべることが大すき。そして、かんがえることが大すき」なんですよね。好奇心いっぱいなんです。物語ではウーフのさまざまな「どうして?」が描かれます。

 

「ウーフは おしっこでできてるか??」のお話では「ぼくは、何でできているのか?」という禅や哲学にも通じる問いかけがなされます。「私とは何ものか?」と。

 

小学2年対象なので、むずかしい言いまわしはないですけどね。こんな感じです。

 

「ねえ、ツネタくん。めんどりはなんでできてるか、あてたらえらいよ。」

「そんなこときまってら。めんどりは、ガラと肉とはねでできてるのさ。しらなかったのかい。」

 

ツネタはウーフの友達なんですけど、キツネなのでずるがしこいんです。ニワトリは骨と肉と羽でできていると。リアリストですね。めんどりは毎日たまごを産むから、たくさんのたまごが体じゅうに入ってて、だからめんどりはたまごでできてるの!というウーフに、「すると、きみはいったいなんでできてるんだい?」とツネタは聞き返します。

ここからのツネタが憎たらしいんです。「めんどりはたまごをうむ。けれど、ウーフはうまないよ。うまないかわりに、からだからだすのはおしっこさ。はは、ウーフはね、おしっこでできてるのさ。じゃ、このたまご、もらってくぜ。ばいばい。」

 

ウーフがめんどりからもらったばかりのタマゴを、ツネタはかっさらっていくのでした。おいかけて転んだウーフの膝からは血が。痛くて涙もこぼれます。ここでウーフが、

 

「あっ、ちだ。」

 

とつぶやくのですが、ここの描写、僕大好きなんですよね。子供が自我にめざめる瞬間をたった六文字で、これだけありありと描けるなんて本当にすごい。一番最初に教科書で読んだ時、バッと焼きついた記憶があります。

 

もちろん「血」も「涙」も「おしっこ」も、どれも「私」ではありません。でも「自我にめざめる出来事」って、この「あっ、ちだ。」的なできごとだと思うんです。誰にとっても。小学生の頃、自転車で転んで、すりむいて、血が出た時の、あの感じ? 傷口にツバをつけたら、しみた。血をなめたら味がした。サビみたいな味がした。

そういう「はじめての経験」の積み重ねで、こころの動きを知っていく。からだを我がものとしていく。そこに「ぼく」「わたし」という自我が育っていく。

 

ただ、そうやって築いてきた「自分」って結局何なのか?

 

銀行員? 主婦? 日本人? いやいや、そういう「肩書」や「役割」や「属性」じゃなくって。。。と改めて問いかけていくのが、坐禅なんだと思います。

 

「自分とは、この肉体だ!」

 

うん。よくある答えで、僕もいまだに「この胸の鼓動が生きてる証拠だ!」とか思ってしまうんですけど、「肉体」も「感覚」も「自分」ではないんですよね。それだと「おしっこでできてるのさ。」のツネタと変わりません。

 

ちょうどいま取り組んでいる公案で、ここのところを聞かれています。 「手をもがれ、足をもがれ、首をもがれ、胴体ももがれた時、お前はどうなる?」と。

 

五体が消えた時、そこに残るものは???

 

 

 

くまの子のウーフはお話の最後で「ウーフは、ウーフでできてるんだよ」と、おしっこでも血でも涙でもない「ぼく」をみつけます。「いたいと思ったり、たべたいと思ったり、おこったり、よろこんだりする」ぼくに出会います。

 

じゃあその「ぼく」とは何ものなのか? 「ウーフでできているウーフ」とは、どこからきて、どこにいるのか? 取り出して見せることはできるのか?

 

大人になっても「どうして?」は続きます。これは頭で考えても出ない答えなので、さあ、すわらなくちゃ。

 

ねえウーフ、ぼくってなんなんだろうね?

たのしそうな修禅寺

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静岡の修善寺温泉に行ってきました。東京でも温泉の出るスーパー銭湯にはよく行くのですが、お湯の「度数」がやはり全然ちがいますね。発泡酒芋焼酎くらい違います。修善寺の湯は濃くて熱くて体の芯に来ます。おかげで疲れがすっかりとれました( ´ ▽ ` )ノ

この温泉街の真ん中に「修禅寺」というお寺がありまして、弘法大師こと空海が開いたと言われています。のぞいてみたらなかなか個性的なお寺だったので、写真をカシャカシャ撮ってきました。上の2枚は神社でおなじみの手水場ですが「大師の湯」と。「飲むことができます」と。

 

チョロチョロ出てる水にふれてみると、これが温かい! ふつう手水は冷たいので面食らいますよ。しかもわざわざ「飲めます」と。せっかく来たんだろう? 飲んできな!と言わんばかりの、おもてなし感。ふつうここって「浄めの場」のはずですが、「温泉街なんだからいいじゃないか」くらいの寛大さというかな。空海イズム全開というか。そもそも修善寺温泉じたいが、空海が掘り当てたと伝えられてるんですよね。一説にはうどんを発明したり、鍼灸を中国から持ち帰ったり、刀の上を歩く大道芸を持ち帰ったりと、空海ってよくわかんないけど楽しそうな人です。

 

と思っていたら今はここ、空海真言宗じゃないんですね(´Д` ) 後に臨済宗となり、曹洞宗となり、今では曹洞宗の禅寺となっているようです。それにともない寺号も「修禅寺」になったと(地名は修善寺のまま)。なんですけど今でも護摩を焚いて祈祷をしたりと真言宗の伝統も残してるようで、うーんカオス。

禅寺といえばモノクロの質素な印象があったので、なかなかのカルチャーショックでした。おみくじまでありましたしね。

 

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マインドフルネス瞑想のイベントも行なっているようで、地元だったら行ってみたかったです。ウェブを見てみたら、住職さんが殺処分になるところだった柴犬を保護した話とかも出てきたり。。。U^ェ^U

 

古くからの、ありがたい教えもいいんですけどね。

 

さとりや解脱という大きな目標をもって坐禅に励むことも大事だけど、ちいさな命を救うとか、イベントをひらくとか。そういう現世的なことを実行してくことも、とても大事なんだなあと。このお寺、地蔵や石仏のセンスもとても良くってね。参禅したわけではないけど、楽しいひとときをすごすことができました。

 

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「無門関提唱」山本玄峰

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Amazonで古本を入手しました。箱無しということで相場の半額くらい。本そのものは書き込みも汚れもなく美品です。いい買い物をしました。箱を読むわけじゃないですからね。

 

「無門関」とは公案集で、「提唱」とは公案についての解説みたいなものです。本書は、山本玄峰老師が昭和30年から33年にかけて三島の龍澤寺で行なった「無門関」の提唱が再録されています。

 

いままで手にとった禅の書籍で圧倒的に一番です。言葉がどんどん入ってくる。昔の人の言葉なのになぜか全然古くない。「禅の修行って、公案って、そういうことなんだな!?」の連続です。でもだからといって、すべてをすぐには呑み込めないのがまた凄いところ。問いが問いのまま、ずしんと残っていきます。知的な理解を許しません。

 

 

だからレビューが書けない(笑)。

 

 

指導者について坐禅はしてるけど、公案がいまいちピンとこない人、漢文が漢字だらけで苦手な人(僕です)に絶対おすすめです。生きた言葉がダイレクトに入ってきます。こういう本は絶版にしちゃいけないと思うな。

 

ちょうどいま青木義子先生のもとで「無門関」をやっているので、最高のタイミングで出会うことができました。 

 

本っていいですね。いまは直接会えない人でも、目の前にいるようです。

タンポポのようにすわる

塩澤賢一先生に教わっているヨーガの影響大、なのですが、さいきん反跏趺坐や安楽坐(スカアーサナ)を組んですわっていると、植物のような身体感覚が出てくるようになりました。

 

背骨が伸びると茎が空に伸びていく感じ。両脚と坐骨が落ち着くと葉っぱが広がってく感じ。木でも花でもいいのですが、タンポポが一番近いかな? 葉っぱが受け皿みたいに広がっている、あの感じ。椅子にすわったり座蒲に正座でもいいかなと思ってた時期もありましたが、それだとこの横のひろがり、植物的な感じは出ないですね。脚を組むことでひろがりがでる。横にひろがると縦にも伸びる。

 

タンポポってたくましいですよね。どこにでも生えるしどこにでも飛んでいく。人が世話しなくても生きていく。

 

禅はどうなんでしょうね? 一度タネが落ちて芽をだしたら(5分でも禅の習慣がついたら)、本人の意思とは無関係に、勝手に伸びていく場合もあると思います。野生のタンポポのように。さぼったり、いっとき離れても、何かの拍子でまた無性にすわりたくなる。

 

でも同時にこうも思います。タンポポみたいな強さはないと。野生ではなく鉢植え。タネを植え、日々水をやり、面倒をみる必要がある。そうしないと芽も出ないし、茎が伸びても枯れてしまうだろう。

 

だから水をやるように日々すわる。

 

花が咲いたからってハッピーエンドではない。花が咲くのは一瞬で、花は全部の一部です。花が枯れても水をやる。

 

すわって植物になった感覚がでてくると、坐禅は水やりなんだなと思います。花に水をやると、うれしそうじゃないですか(^^) 茎や葉のミドリが水をはじいて、うぶ毛がキラキラして。外側からみていたあの感じが、内側に感じられるようになる。水やりして元気になった花のように。色もね、あんな感じです。明るくてね。

 

だからやはり即効性や劇的な効果みたいなものは、禅には求めない方がいいのかもしれないですね。タネをまいたばかりで「いつ芽が出る?」「いつ花が咲く?」って、じーっと見ててもしょうがないでしょ。

 

昔、ベランダで鉢植のカランコエを枯らせそうになって、わずかに生きてた枝と葉に水をやり続けました。2週間、3週間、ひと月。おかげで青々と葉がしげり、ああよかったと思ったら何か様子が違う。葉っぱがギザギザしてるんです。どこかで見覚えがある。

 

タンポポでしたね。どっかから飛んできた。もう間引いてやろうかくらいボーボーに伸びましたよ。

金澤翔子書展

f:id:nowhereman-yes-love:20170928161821j:plain上野の森美術館で開催されている金澤翔子さんの書展に行ってきました。お金はらって書を見にいくのは初めてかも。絵や写真とちがって、書って何がすごくて何が良いかよくわからないんですよね。なんか皆エラそーだし。

 

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翔子さんはことし32歳。「ダウン症の女流書家」という肩書きが一応ついています。僕も駅に出てた看板で彼女をみて「エラそーじゃないしいいかも(・ω・)ノ」と思って行ってきました。

 

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軽い気持ちで行ったんですけどね。作品の前で動けなくなりしばし立ち尽くすという経験を、ほんとうに久しぶりにしました。その雰囲気が出るようにがんばって写真とってみたけど、うーんやっぱり写真だと違うなあ。

「嵐に遭ってる時」の感じと「嵐の様子を撮った写真」を見た時の印象が、決定的に違うように。

ほんとうにね、山歩きしてる時に吹きぬけてく風とか、雨上がりにポチャンとかがやく雨のしずくとかの自然現象に近いんです。金澤さんの書って。「見る」って感じじゃ許されない。「入ってくる」というか「こっちが入っていく」感じになる。

 

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これも「!」って音がいっぱいに聞こえてきた。「観音(かんのん)」の「音」なので、音が観えてもいいじゃないですか(^_−)−☆

 

翔子さんをここまでの書家に育てたのはお母さんのようで、それは並々ならぬ苦労をされたようです。これらの書はふたりの合作のような気もしました。お母さんは書と仏教にゆかりのある方のようで、翔子さんの書には経文や禅語も多くみられます。ふたつ前の写真も禅語「大哉心乎(おおいなるかなこころや)」の最初の二文字です。全部だと4メートルくらいある。そう、でかいのに息切れしてないんです。ほんと風とか空ゆく鳥をみてるよう。

 

まずバッ!と印象が飛び込んでくる。嵐のように、稲妻のように。こころは全部受け入れている。そこにたとえば「大哉」とか「音」とかの情報(文字、記号)を与えられると、頭のほうでも「そういうことか!」と合点する。

達筆とよばれる書も難解といわれる抽象画も「何が描いてあるんだろう?」って、つい意味を求めてしまう。説明書きを読んで「わかった」気になって初めて安心する。でもきっと初動のこころの動きが大事なんですよね。「何が?」の前に来てる「!」とか∑(゚Д゚)とかが。

 

金澤さんの書はそこのところがすごくハッキリしていたので「ああやっぱり頭で理解する前にこころが動いてるんだ」ってことがよくわかりました。同時に「こころが動くだけでなく、頭で理解することも(度が過ぎなければ)大事なんだ」とも。せっかく人に生まれてるんですから。頭や文字に使われてはいけないけど、僕らも頭や文字を使えるようになれれば。翔子さんが筆を使うように。

 

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ああだこうだとごたくを並べてきましたが、ホントは胸がじんじんしっ放しで、ずっと涙をこらえてましたよ。翔子さんご本人もいらっしゃったので、図録にサインと握手もしてもらいました。明るくて、ちっちゃくて、シャイな方でした。声も澄んでいたなあ。

山本玄峰老師その2

玄峰老師が住職をつとめていた三島の龍澤寺は、江戸時代にかの白隠禅師が再興した寺で、老師は「白隠の再来」とも言われていたようです。

 

仏教誌の「大法輪」だったと思いますが、図書館でみつけたバックナンバーに良い記事がありました。「白隠による示衆(じしゅ/説明)」を引き合いに、玄峰老師が数息観を解説しているものです。語り口調がまたいい。一部掲載&引用させてくださいm(__)m 

 

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「どんな大切なことを人と話すにしても、自分の息が数えられないようなことだったら、ほんとうのことはできやせん。それじゃから人と大事な話をしたりするときは、第一に息をしずめて、全身、足の先から頭の先までずっと一つになってやる。それじゃから、物を言うても心が時にふれて言葉になって出てくるのである。言葉を変えて物をいう人は心得て注意せにゃいかん。言葉を、声を変えて物をいっている。いいかげんなことをいう。頭でただこしらえていうからいかん」

 

息をかぞえることの効用や影響について、これほど核心を突いてまた拡がりのあるものは、ちょっとないと思います。「呼吸法」とか「身体感覚」とか「実用性」とか、ひとつのものを分けてバラバラに扱ってるようではいけないのだなと反省(-_-) それって「分別」が働きまくってるわけで。

 

この「小分けにできない」感じが、本来の禅なんでしょうね。続けます。

 

「身体を斉整せしめ、数息観をやる。そうして一則の公案、直に断命根(だんみょうこん)じゃ。肉体の中にある貪瞋痴(とんじんち)、八万四千の妄想、この命根をすっきり断たにゃいかん。そうなると本来の面目がガラッと開ける。八万四千の妄想も煩悩もふっとぶ。ちょうど大般若の十六善神がみな悪人だった、それがみな護法善神になってくる。自分らもそうじゃ。何もやりかえるわけでも、入れかえるわけでもない。自分で持っておるのじゃ」

 

84000の妄想、この命根をすっきり断たにゃいかん! 息の根を止めろと。根こそぎ行けと。雑念どもは皆殺しψ(`∇´)ψ テンションあがります!

「ひとーつ、ふたーつ」と息をかぞえるのは、このためだったのだなあ。

 

そして注目すべきは、雑念、妄想、煩悩を坐禅で皆殺しにすると、みんな生まれ変わって味方になってくれるというところ。「大般若の十六善神」うんぬんは、どうやらそういうことのようです。悪魔超人や残虐超人がつぎつぎと正義超人になっていく『キン肉マン』パターンですね。これは非常にたのもしい。将棋の方がわかりやすいか。取った駒は好きに使える。自分を苦しめていた敵が、心強い味方になる。

 

「渋柿が甘柿になる。渋柿でなければ甘柿にならない。渋いも渋い。それが途端に甘柿になる。人間もそうじゃ。悪にも強いやつが善にも強い。ヘナヘナしておるやつは何も役に立たん。甘いやら渋いやら、融けたのやら砕けたのやらわからんような人間はだめである」

 

渋柿でなければ甘柿にならない。悪にも強いやつが善にも強い。これも励まされるというか、ひとつ謎が解けそうです。

 

柿の「渋み」をその人の「悪い癖」、「甘み」を「いいところ」として読んでみる。

 

現在の一般的な教育では「短所を矯正して長所を伸ばす」と考えることが多いと思いますが、これそうじゃないですよね。短所がそのまま長所になる。何も減らず、何も増えてない。ただ転換、逆転だけが起きている。だから「心を入れ替える」必要はない。

 

子煩悩な元ヤンとかね。まっすぐで情に熱い人。「あの頃から変わってないぜ!」ってダチも証言してるしなあ。坐禅はやってないようですけど、必要なかったんでしょう。

 

禅をやっていくと、「みんながそうしてるから」だけの理由で身につけてきた常識や価値観が、身にそぐわないものとしてどんどん落ちていく気がします。自分に必要ないものは。良くも悪くも、その人本来の性質がハッキリ出てくる。なので「なかなか消えない悪い癖」がしつこく残るというか、目につくようになるんですよね。個性や本性といってもいいのかもしれないけど。自分もそうだし、先輩がたもそう。公案がひと通り終わったら、いきなりカネにがめつくなった人とかね(゚O゚) めちゃめちゃ真面目に修行してきたのになぜ?って、ずっと謎だったんですけど。

 

まだ途中経過なのかも。公案が終わっただけで悟ったわけじゃないし。「本来の面目がガラッと開けて」はいない。がめつさも突き抜けたら、甘くなるのかも? 

 

僕の「悪い癖」もそうかもしれません(−_−#)

 

84000の雑念を皆殺し。玄峰老師のところには「刑務所に十一回も入ってきた男」がいたそうで、それはもう死ぬ思いで修行をしていたようですが、その後どうなったのか気になります。