息をかぞえて

禅・こころとからだ

ニンニクヤサイマシマシで。

坐禅を組んだ後はなんらかの気づきがあります。しょうもない気づきも多いのですが、今日は二郎のラーメンがこんもりと浮かんできました。ニンニクヤサイマシマシで。「ああ坐禅と二郎って似てるなあ」と。

 

(´・_・`)

 

ドンブリ部分が首から下の本体。マシマシのヤサイとニンニクは頭の中の雑念、イメージの世界です。こんもりしてますよね。こんなに喰っていいのか?という背徳感と金持ちになったような満足感。ある意味、着丼の時点で完結しています。開店前から並んだ甲斐があったというものです。

 

豚? もちろん「頭の中」です。アブラ? カラメ? ややしこくなるのでここではナシで。全部を二郎でたとえると無理が出てきそうなので、坐禅ベースで話を進めます。二郎の作法からみると「それは違う!」的なたとえも出てくるでしょうが、ひとつ大きな心で。何言ってるかわからない人は「ラーメン二郎」で画像検索してみてください。言わんとしてることがすごくよくわかると思います。

 

二郎のビジュアルって食欲の権化というか、人が頭の中で描く「これがオレ様だ!」といったセルフイメージに似てるんですよね。ほっとくとエスカレートして肥大化していくところが特に。ヤサイの盛りも本家よりインスパイア系の方が凄かったりするじゃないですか?

 

「天地返し」ってやりますよね? たべる前に麺を底からひっくり返して、ヤサイを沈めるやつ。麺を潜在意識、ヤサイを顕在意識(頭の中の雑念)にたとえるなら、麺がゴソッと表に出てヤサイが引っ込む感じは見性(けんしょう、さとりの一時的体験)に似てるかも。なかなか起こらないし、狙ってできるものでもないけど、本来の自己が全面に出てくる。ヤサイは沈むというより跡かたも無くなっちゃうけど。

 

じっさいには、日々の坐禅では、天地返しは行なえず(100%成功する方法は発見されてないので)、マシマシになった大量のモヤシとたまに出てくるキャベツを箸でつまんで、モグモグモグと噛みしめていく感じです。なかなか麺までたどりつけません。だから坐禅が続かない人が多いのかもしれませんね。

ドンブリの温かさをたしかめ(首から下の身体感覚になじんでいく)、ニンニクと脂とカネシ醤油のまじった湯気を楽しめるようになれば(雑念をちゃんとみる。くっさいやつも)、二郎同様やみつきになるんですけどね。

 

ドンブリの中身、つまり麺とスープを潜在意識としましたが、ここにはまっさらな「本来の自己」と、混沌とした過去の記憶(阿頼耶識前前前世? まだ見てません)があるようです。ここのところ僕はまだよくわかってないので、このさきハッキリさせていかないといけません。

 

二郎は神保町とひばりが丘が好きですε-(´∀`; ) 関内にも行ってみたい。

 

沙門空海 唐の国にて鬼と宴す

夢枕獏の小説で、心ある人から薦められていたのですが、いやすごかったです。完結まで17年かかったとか色々とすごいのだけれど∑(゚Д゚) ひとつ挙げるなら「たっぷり坐禅を組んだ後に街を歩くときの感じ」が再現されている。空海真言宗禅宗ではないけれど、こまかいことはいいじゃないですか。色も音も匂いも、人の気持ちや吹く風も。あたたかさを伴った霧のように、こまやかに流れ込んできます。

 

ハイな状態で録音されたビートルズボブ・マーリーの音源が、独特の響きを持っているのにも似て。もうすこし、おだやかですけどね。知覚のゆがみやズレはない。

 

般若心経の描写とか唸らされます。大音声(だいおんじょう)で響きわたる。僕の場合は「音なき音」という感じだったのですが、以前の接心(せっしん、坐禅の合宿みたいなものです)で似たような体験をしたことがあります。

お経なので声を出してギャーテーギャーテーと唱えるわけですが、「ああ声に出さなくても常に鳴ってるんだな」と、声を出しながら気づいたというか。オーディオでたとえるなら、ヴォリュームはゼロだけど音源はつねにギャーテーギャーテーと再生されている。声を出すのは、ヴォリュームのつまみを上げていくくらいの役目にすぎなくて。音なき音として常にこの空間で鳴っている。

 

お経だけでなく音だけでなく、色や思いも同じ仕組みで現れたり消えたりしているのだろうなと。

 

そんな不確かな世界で、じゃあどう振る舞うか?という話になってくるのですが。夢まぼろしのような世界でも、死んだ人は生き返らないし、昨日には戻れないですからね。哀しいかなそれだけは確かなことで。この作品はそこのところに喰らいついていきます。

 

夢枕獏先生の作品を通して読んだのははじめてだったのですが、同時代のお坊さんや学者が書いている仏教の書籍で、ここまで目のさめる思いをするものはなかった気がします。もちろん仏教関連の書籍ぜんぶに目を通してるわけではないですが。

 

エンターテインメントで宗教からも逃げてないって、すごいなあ(((o(*゚▽゚*)o)))

 

やさしさにチューニングする

つまらないことで腹が立ちます。どうでもいいことでクヨクヨする。たぶんどれも、ものごとがうまくいってる時はスルーできてる出来事です。

 

すわると少しらくになりますね。出来事との(心理的な)距離がすこし空く。直撃を受けなくなるし、考えを(近視眼的に)いじくり回さなくなる。自分の思いどおりにならなかった出来事に対して、うさを晴らそうとか、リベンジしてやろうという気が起きにくくなる。

 

「ちくしょー!」の声が遠くなっていきます。いらだちや怒りがしずまり、悲観的でなくなる。

 

呼吸に意識をあわせていくと、じょじょにズレがおさまり、やがてぴったり合うところに来ます。ギターの弦を張り替え、つまみをいじって、「ああここだ」とチューニングが合った時の感じ。無音の「A」がポーン...と鳴る感じ。間違いない、気持ちのよい静けさです。

 

イライラもクヨクヨも場違いな感じ。肩身がせまそう(._.)

 

こころが楽器だとして、チューニングが狂ってる状態が「いらだち」だったり「落ち込み」だったりするのかもしれません。

 

チューニングが合ってる状態は? 「やさしさ」なんだろうなあ。外側の状況がどうであれ、「ものごとがうまくいってる時」と同じようなゆとり? 寛大さがある。

 

Nothing's gonna change my world~🎶な感じです。なにものにも左右されない。我をはって自分の正しさを主張する、ではないです。あのジリジリ焦げるような感覚はもうない。ほの明るくて静かです。外側の出来事にも内なる雑念にも左右されない「やさしさ」の感覚をおぼえて帰ってきます。

 

長持ちするようになるといいなあ。

 

思いを逝かせてあげる

ジョージ秋山の「弘法大師空海」のセリフで「生きたまま成仏するのが人だ。人間だぞ」というのがあって、なんか心に残ってます。

 

「成仏(じょうぶつ)」というと迷信のようだけど、死んで極楽に往生することを望むのではなく、思い残すことなく生きて死ぬことなんだと思います。死ぬ前の後悔や思い残し。「あんなに働かなくてもよかった」とか? 「もっと家族と過ごせばよかった」とか? 末期患者のことばを集めた看護師の記録が、ちょっと前に話題になりましたね。

 

果たせぬ思い。坐禅や瞑想では「思いが浮かび、消え、あるいは残る」さまがみえてくるわけだから、日々のストレスや過去のトラウマとかも含めて、無念を晴らすのに効果がある気がしています。すわることで思いをシュワシュワと逝かせてあげる。イメージとしてはまさに「成仏」なんですよね。幽霊や妖怪が蒸発していくような?

 

ダイエット中に「ラーメン食いたい!」とか死ぬほど思ってたのが、坐禅を終えるとシュワシュワ消えていたり。これも一応「思い」の「成仏」です(・ω・)ノ

 

ほっとけば消えてく思いは見送り、しつこく残る思いは見守るといった感じでしょうか。幼少期のトラウマ(記憶、つまり思いの塊)や10年20年居座ってるようなベテランの雑念は、すでにアイデンティティの一部と化しているので、共存していくしかない。いつか関係性に変化が生まれるかもしれない。to be continued...です。

 

死ぬまぎわの、あんなに働かなくてよかったはどうなんでしょうね? ちょっとズルい気もします。働かなかったら働かなかったで「ちゃんと働いておけば...」とか思うでしょうし、家族と過ごしてたらもっと後悔してたかもしれません。何かを選択すれば別の選択肢が「もしも」と枝分かれして出てくるのが、思考の仕組みなわけで。「白」といえば「黒」がうまれ、「右」といえば「左」がうまれます。

 

坐禅をやっててわかってきたことですが、何を選んでも後悔するように人のアタマはできているようです。

 

あの時ああしておけば。死ぬ前ということで美化されてますが、これ、坐禅中に浮かんでくる「雑念」と変わらないんですよね。「ラーメン食いたい」と一緒。

 

働きづめだった人も、そこに喜びや充実感を感じていたかもしれない。だけどそれを忘れて、たまたま死ぬ前に来た「あんなに働かなくても」との「雑念」にとらわれる。死にたくないからしがみつく。最後の最後まで「思い」に振り回される。

 

「成仏せい」って感じですよね。楽しい思いもしただろ?って。

 

思い(雑念)がやむことはないし、何を選んでも人は後悔するから、日々浮かぶ思いに自覚的であることは大事なのだ、とも思います。今の状況に満足できてなくても、このまま進んだら後悔しそうでも、その思いを自覚できてたらいいのではないか。そのとき少なくとも「思いの奴隷」にはなってないわけで。

 

身動きとれない状況でも、こころは自由でいられます。これがけっこう大事な気がする。

 

高望みしてもどこにも行けないですからね。自分なりに良いと思ったことを選びつづけて、皆、今の状況にいるはずで。そこで他人と比較を始めると「あの時ああしておけば...」となるけれど、それもやはり「雑念」が生む「妄想」です。

 

逝かせることのできる思いは逝かせて、今できることをやるのみです( ̄^ ̄)ゞ

ジョージ秋山「弘法大師空海」

ジョージ秋山のマンガ「弘法大師空海」を文庫で読みました。1997年に集英社の「MANGAオールマン」で連載されていたんですね。幽体離脱、超能力、セックス。半分以上が秋山先生の体験談と人生訓なので、空海の学習マンガを期待してたマジメな読者はブッ飛ぶと思いますが、僕には面白かったです。

 

秋山先生は自己流の瞑想もされていたようで、最終回はその伝授だったりします。これが最近はやりのマインドフルネス瞑想とよく似ていて、時代を先取りしているというか大事な所は外してないというか。20年前ですからね。

 

珠玉のセリフ満載で。愛することができる人間に宗教なんかいらない、とかね。「すべての自殺は自意識が強いゆえじゃ」とか。

 

そうなんですよね。「あー死にてえ」とか「いっそ死んだら楽なのに」とか思ってるのは自分の頭の中だけで、首から下はそんなこと思っちゃいない。手や足に聞いてみてください。「死にたい」とは絶対返ってこないから。

 

「お前なんか死んじゃえ」的なニュアンスの、心ない言葉を投げてくる人もいるかもしれません。でもそれらのメッセージをどう扱うかも「自分の頭の中」の出来事です。真に受けてぐるぐるとループさせるのも「お前にオレの何がわかる」と切り捨てるのも、選択権は自分にあります。

 

自意識が強くなるほど、自分が傷つくことに弱くなるんですよね。一見、逆に思えますが。「自分」関連のワードが来ると、よいものもわるいものも磁石のように引きつけてしまう。真に受けてスルーできなくなる。僕自身がそうなので、よくわかります。自意識過剰はある種の「磁力」を生みます。磁力を帯びた者どうし引きつけあったり反発したり。

 

ただやはり坐禅や瞑想で自分の頭の中をみる、自意識の正体を見きわめていくと、その磁力も弱まっていく気がします。集中してる意識がバラけて、セルフイメージがぼやけてくる。「こうありたい」というナルシシズムから解放されていく。無意識過剰になっていくというか。

 

しかしどういうわけか禅や瞑想で我が強くなる場合もあるので( ´Д`)y━・~~、独学(ひとりよがりになる)はやめた方がいいし、指導者えらびは大事だと思います。指導者やグループぐるみで我が強くなったり、妄想しがちになったらサヨナラです。閉鎖的なのは危険ですよね。自分たちの頭の中に閉じこもってしまうから。

 

弘法大師空海」が連載されていた1997年はオウム真理教事件(95年)の直後。秋山先生によるオウム事件への回答、時代への問いかけだったのだと思います。僕が大学を出た頃で、まだ学生だった同じ大学の後輩が秋山先生のロングインタビューをとってきて、自分の同人誌に掲載したり。その後そのインタビューが商業誌の「クイックジャパン」に転載されたり。オウムや宗教の話もしてたと思います。

当時は「近くで起きてる遠くの出来事」と思ってましたが、いつの間にか近くまで来てました。

 

脚と腰を取り戻す

組むと痛いし。正座は正座でしびれるし。すわる時、この両脚がとかくわずらわしく感じられました。ふだんもそうだな。ぶつけて痛い時とか、かゆくてかく時くらいしか、脚のことは意識しなかったかも。

「下半身」という呼びかたも、ちょっと下に見てますよね。足腰をパーツあつかいしてるというか。えらいのは脳みそだけで、あとは部品みたいな? 僕はさいわい腰痛もちではないのですが、「腰が痛い」というのも腰をパーツ、部品あつかいして無茶、無理してきたからでは?と思います。

坐禅を長年続けている先輩の多くが膝や腰を悪くしているのを見て、結跏趺坐やだ(>_<)と避けていた部分もあります。みんな準備体操もストレッチもしないんだもの。

 

すこしずつ脚が組めるようになり、脚とおしりを床につけてすわれるようになり。ここにきて「自分が脚と腰になった」感覚が出てきてます。脚も腰もからだの一部なわけで、いまさら「なる」もないのですが。でもそれくらい、今までおざなりにしてたんだと思います。ずっと一緒だったのにね。

 

歩いたり、立ったりするだけじゃないんだぞ。

 

もちろん組んでいるので、脚も付け根もジンジンしてます。ノーストレスではない。でも下克上というかな、「ああ、この脚と腰、生きてるわ!」みたいな。ずっと司令部があった頭脳から、主導権が足腰という「現場」に移った感覚? 意識の主導権が逆転して、これまでにないくらい脚と腰がいきいきとしてます。脚と腰を「取り戻した」感があります。

そのかん頭はお留守です。ガラガラのお店みたいにテンションがひくい。

 

雑念も少なく、30分40分、あっという間にすぎます。脚と腰の感覚を味わっているうちに。

 

しびれた時にね。「このままじゃ血流がアレだから動きなさい」とか、的確なアドバイスを頭脳はくれます。それも大事なのですが、その最中も脚はただジンジンしてるだけなんですよね。頭脳とは別世界で、ジンジンと生きている。

20分30分すわっていると、自律してる何かを感じるようです。脚にも腰にも、未開の感覚、感性が埋まっている気がします。それでいて、あーだこーだと考えたり悩んだりしないのがいいとこなんですよね。頭にはできない芸当です。

すわるまえの、ヨガ

股関節がカタくて。昔のガンプラなみの可動域で。両脚を組む結跏趺坐(けっかふざ)はおろか、片っぽだけの半跏趺坐(はんかふざ)もきつかったので、7〜8年ずっと、お尻に座布をはさんで正座してました。

まずそれが許される環境でラッキーでしたね。体験でまわった禅堂の中には、結跏趺坐を強要してくる人もいてψ(`∇´)ψ 。こういう理由で坐禅を敬遠したり、挫折する人もいるだろうなあと思いました。コツを教えるでもなく、ただやれ、我慢しろ!ですから。しかも指導者でもない。ドヤ顔してるベテランさんです。

 

「足よりも背骨。背筋をのばして呼吸に専念すればよし!」という指導者に会えたので、足にハマらず、続けられたのだと思います。あたたかい目で見守っていただきました。

 

それが最近ね、ヨガをはじめたおかげで、半跏趺坐ならなんとかなりそうなとこまで来ました。

 

7年たって今更?とか。体が固いのにヨガ???とか。書きながら「?」が点灯してますが。

 

脚くんですわるの、いいです。浮き輪で海にういているよう。上半身(背骨?)の無理がなくなる。息がらくになる。いくらでもすわれそう。だからってプカプカとゆるふわなかんじでもない。カメラのピントが合ったように、こころもからだも引き締まってきています。

 

脚は邪魔もの。くらいに思ってたのですが、手順をふめば、変わりようはありますね。いきなり結跏趺坐、は無理ですけど。