息をかぞえて

禅・こころとからだ

うんこ坐禅ドリル?

先日、とあるヨガの先生に会う機会があったのですが、腕にふれるとビリビリ「きもちよいヴァイブレーション(((o(*゚▽゚*)o)))」が伝わってきて、「お?おッ!」と笑いがこみあげてくるという、不思議な体験をしました。その先生は胎内記憶もあるとのことで、すごい人がいるなあ。

 

僕は胎内記憶どころか幼少時の記憶もほとんどなく、幼稚園の記憶がポツポツとあるくらいです。うんこをもらして先生に立たされたとか。4歳くらい? それから後の記憶はだんだんと増えていきます。ものごころがつく頃ですよね。

 

みんな何気なく使ってるけど、「ものごころがつく」ってすごい言葉ですよね。「もの」と「こころ」の区別が「つく」ようになるんですよ。言葉をおぼえだすと。「もの」と「こころ」に分かれて、世界が再構築されていく。「こころ」という言葉の作用が、目の前の渾然一体を「もの」に分けていく。「マンマ」とか「ブーブー」とか。「うんこ、ばっちい」とか。言葉に残せるから、記憶もしやすくなるんでしょう。

 

母親。クルマのおもちゃ。目や手や口にふれる「もの」を「言葉」で分けるようになる。「マンマ」(母親)がそう呼んでくるから、こちら側は「リョウちゃん」なんだと「分ける」。わかった(分かった)つもりになる。「おもちゃは口に入れちゃダメ」とかね。大事なことですけど。うんこも入れちゃダメです。もう出てるのだから。

 

こっちとそっち。自分と他者。頭の中で分かれていく。目の前の情景も分かれて見えてくる。おもちゃをにぎって「リョウちゃんのブーブー」。自我のめばえです。

 

この「分ける」「分かる」が行きすぎると、行き過ぎた区別、たとえば「差別」や(その対極としての)「所有」といった妄想が生まれ、あたかも実体があるかのようにふるまいだすのでよろしくない。だから「ものごころがつく前」のありかたを今一度体験しよう! いらぬ偏見や先入観から自由になろう! 禅はそういった取り組みをしているように思われます。人の悩みは先入観から生まれます。お金のことで悩む赤ちゃんはいません。

 

「うんこは汚い」というのも一見「分かりきった常識」ですが、じつは区別から生まれた差別であり、偏見です。「うんこ」と「汚い」という言葉を知らないかぎり、つなげないかぎり、生まれてこない妄想です。カラス、金魚、犬。言葉を持たない動物は、排泄してそれきり。きれいも汚いもない。人間も、さいしょはおむつでぶりぶりです。

 

その頃、母親は怒ることなく、うんこのおむつを替えていたはず。これが幼稚園の先生となると「ウチの子じゃないから」「もう幼稚園児なんだから」「くさいし」と区別が始まります。「他人のうんこは汚い」という出来上がった妄想のもとに。こうなると、ちょっとやそっとじゃさわれません。その人の頭の中ではね。

 

その気になればさわれるんですよ。だからこそブチ切れるんですよね。「アンタ、立ってなさい!」と。「なんでアタシが片づけなきゃなんないの?」と。

 

自分のうんこはまだいいけど、人のうんこだと許せなくなるのは何故?

 

問題は「うんこ」ではなく、「きれい」「汚い」という区別、「自分」と「他人」という区別にあるんですよね。性別、人種、職業、生まれ育ち、何でもそうです。私はきれいであいつは汚い。言葉が生み出す、人間限定の差別。うんこに罪はないし、ものごころがつかないうちは「うんこ」も「罪」もないんですよね。 

 

恋した時に痛むのは?

あの子への想いがズキズキと痛みます。よく笑うあの子。いたずらな目のあの子。誰にもやさしいあの子。はあ。

 

恋です。

 

ズキズキと痛んでるのはどこか?

そもさんせっぱ、「痛みのありか」はどこじゃ?

 

胸!

 

うん、胸骨からみぞおちにかけてズキズキしてる。爪を立て、かきむしるように。痛みどめ、消炎剤。お薬をちょうだい。

  

こういうとき病院や薬局に行くバカもいないと思いますが、お酒は飲みますよね。痛みがまぎれるから。アルコールで神経を麻痺させてる、のかな?

 

一方で「シラフで痛みを感じ切れ」という人もいます。感じ切れば痛みは消えると。これね、やったら効果ありました。逃げられないから、すっごい苦しかったけど。頭痛や腹痛と基本一緒で、時間が経てば痛みは消えます。

で、ここからが本題で、痛みを感じてるとき思ったんです。これ、本当に「胸が」痛いのか?って。

 

胸骨からみぞおちにかけて、その一帯の「空間」に「痛み」が起こってるだけなんじゃないの?って。

 

え?

 

はい。痛みのありかは、肉体ではなく、実は「その肉体がある空間」の方では?と僕は言ってます。稲妻がジーッと空を走るように、痛みがビッと空間を走ってる。空間を感覚だけが走ってる。その感覚を感じてるのも、また空間。意識をともなう空間です。

そこには肉体もあるのですが、後づけというか。空間じたいが意識で、体はハリボテの着ぐるみ?(着ぐるみの「中の人」はいません。いるならむしろ「外」ですね。いや中も外もないか。空間全部で体やら痛みやらを感じてる)

こうなると頭痛も腹痛も胸の痛みも、そして「肉体がある」という実感すら「感覚」として等価値です。どれもこれも空間に現れている「感覚」なわけだから。

 

スミマセン。ついてこれない方も出てきてると思いますが、もうちょい続けさせてください(>_<)

 

バカ言うな、ですよね。胸の痛み。そう、一歩あるけば、空間における「胸」の位置は移動します。一歩前に出れば、さっきまで「胸があった空間」は背中の後ろです。そこに痛みはありません。ただの空間で、叩いてもなでても空を切るだけ。目下ズキズキしてる「空間」は一歩前の「いま胸があるところ」に移動してます。(その空間を肉体が占めている)

一方で肉体そのものをみれば、痛みのある所はやはり「胸」です。こちらは何歩あるいても動かない。何歩あるいても同じところが痛い。痛みからも体からも逃げられない。

 

なので、やっぱり「痛みのありか」は空間じゃなくて、この体じゃないか! そう思うのが自然ですよね。なにを当たり前のことを!

 

なんですけど、その感覚がひっくり返る感じが出てきます。坐禅を続けてると。

「痛み」があるのは「肉体」というより、むしろ「空間」、「痛みを感じてるこの体をも包んでる空間」ではないのか? そんな感覚が出てきます。妄想と呼ぶには実感をともなってます。

 

体という着ぐるみを一度脱いで、裏返した感じ? 痛みも体もぽっかりと浮いている。空間が「痛み」や「肉体」という「感覚」を生み、そして感じている。わたしは空間であり意識。痛みや体はそこにチカチカと現われる瞬間的なもの。

 

だからといって「痛くても平気!」とはならないのが、ざんねんなところです。やっぱり痛い。前より鋭い痛みかも。だけどなぜだか耐えられる。お酒がなくても耐えられる。

 

やっぱり胸がズキズキするなあ。かわいいあの子。あーもうやだ。

 

坐禅でこころは強くなるのか? その2

前回同じテーマで書いたのですが、よくみたら「手塚治虫ブッダはすごい」という話になっていたので、あらためて書きます。さて、こころは強くなるのか?

 

「こころがいま何を感じてるのか?」 それは前よりわかるようになります。あと「頭からどんな考えがわいてきてるのか?」も。「こころの声と頭の中のおしゃべりって別物だったのね!」とかも。大体、ごっちゃになってるんですよね。

個人的な定義、感覚となりますが、「こころ」は位置的には「胸のまんなか、ちょっと奥」に在るように感じられます。目には見えませんが、その感覚をヴィジュアル化すると「網目のあるセンサー」。音以外の情報も拾うマイクロフォンみたいな? 感覚を持つ網目のようなものです。臓器や神経と違って、実体はないと思いますが。

この「こころセンサー」は他人の反応や周りで起きる出来事、あと頭の中で思い出したことに「反応」します。申し出を拒否されたり思いやりのない言葉を投げられたりすると「ズキン!」と痛んだり。コップがガチャン!と落ちる音に「ビクン!」と飛び上がったり。誰かにかけられた優しい言葉を思い出して、じーんときたり。いろいろと反応します。

 

いまスタバにいるのですが、隣の人が2時間くらいずーっと貧乏ゆすりをしてるので、それにざわざわしています(笑)。これは本当に、マイクが音を拾う感じに似てます。空間を通して伝わってくる振動を、その都度、胸にある「こころセンサー」が感知してるというか。あ、まず肌で感知して、それがこころに伝わってるのか? 

 

さあここで「頭」の出番です。「落ち着かねえなあ」とか「うぜえなあ」とか。「早く帰らないかなあ」とか。こころの「ざわざわ」に対応した、いろんな「考え」が次々とわいてきます。わがままですねえ。

 

で、ここからがおもしろいところで、坐禅をやるようになってからは、こういう時も「なんだかんだ平気」でいられるようになりました。

 

こころは「ざわざわ」するし、頭は「うぜえ」とイラつくのですが、それが起きてる「空間」が「なんかデカい」んです。

 

たとえるなら、以前は1K四畳半の狭い(しかもちらかった)部屋で「ざわざわ」と「うぜえ」が反響して、そっこうぶちきれてたのが、今はそこがカーネギーホールくらいの広さで、「ざわざわ」も「うぜえ」もふっ、ふっと立ち消えになっていくというか。

「貧乏ゆすりに慣れてくる」とはまた違うんです。慣れてもやはりイラついてるわけで。読書や仕事に集中できないわけで。そうじゃなくて「イラつきたくても、イラつけなくなる」感じ? 「イライラ」になる前の「イラ」あたりでずっと止まってて、集中も途切れない。なんだかんだ、はかどるわあ♪( ´▽`)

 

こころセンサーの感度は以前より上がっているので、いろんなことに感じやすくはなります。以前は聞こえなかった小さな音が聞こえ、以前は判別できなかった微かな違和感に気づく。傷つきやすくもなります。他人や環境と同化しやすくもなる。

 

だけどそれが起きてる空間がだだっ広いせいか、傷ついたままではいないし、同化も長く続かない。窓あけっぱ。換気が良いので、どんどん新しい風が入ってくる。空気、気分が随時更新される。傷もかわいて早く治る。しっくり来ないものは飛ばされていく。カーテンがひらひら。

 

こうして書いてくると、こころが「強くなる」というより「広くなる」という感じですね。こころの境界線がどんどん拡がって、薄くなっていく。

 

以前は「こころ」というとハート形のかたちあるものをイメージしていたのですが、最近それができなくなってきています。形のないものは、強くも弱くもしようがないなあ、と。

坐禅でこころは強くなるのか?

「こころを強くしたい」と思って始めた坐禅。毎日すわるようになって6〜7年になりますが、はたして心は強くなったのか? そもそも坐禅で心は強くなるのか? いくつか回った禅寺や禅堂の指導者も、何冊か読んだ禅の入門書も、「坐禅をすると心が強くなります」とは言ってなかった気がする。

 

坐禅をすれば、こころが強くなる」となぜ思ったのだろう?

 

宮本武蔵一休さんといった「坐禅をやってる人」が、こわいもの知らずで頼もしく見えたから。手塚治虫の「ブッダ」で、シッダルタがさとりをひらくさまに感動したから。

 

うーん、フィクションですね。武蔵は吉川英治の小説だし、一休さんはアニメ。マンガや小説の影響うけすぎ∑(゚Д゚)

 

だけど「あしたのジョー」でボクシングを始めたり、「キャプテン翼」でサッカーを始めた人もいるので、きっかけは作り話でもいい気がしてきました。

 

特に手塚先生の「ブッダ」は良いです。伝承同様、樹下の瞑想でシッダルタはさとりをひらくのですが、その「至高体験」がクライマックスでないところが良いです。むしろその前後に描かれるいくつかの苦しみが、強く訴えかけてくる。

至高体験でさとった気分になっていた時、祖国が滅びたことを知らされ、シッダルタは再び苦しみます。そしてそこに、この世の地獄を生きてきた「死ねない巨人」のヤタラが来ます。憎しみに取り憑かれたヤタラは、答えられなければ殺すとばかりに、生きる意味やこの世の道理を問いかけます。

 

こうしてシッダルタとヤタラの対話が始まるのですが、この場面は手塚先生による完全な創作なのですが、僕には「ありがたいお経」よりも真に迫っている気がして、何かあると読み返しています。流れる時間はとても静かで、強い弱いをこえた「こころの強さ」を感じます。ヤタラとシッダルタ、迷える者同士。うつし鏡のように。

 

似たような場面は、僕の人生にも、誰の人生にも訪れている気がして、その時こんな時間が流れればいいなと思い、日々すわっています。

僕の先生

昨日は定例の坐禅会。おもいがけない、よいことがありました。たまにこういうことが起こるから、やめられないし、継続は大事だなあと思います。今日とても元気です!

 

僕が参加している坐禅会とその指導者について、もう一度説明しておくことにします。

 

指導者はカトリック修道院「聖心会」のシスター、青木義子先生。

シスターでありながら宗教法人三宝禅」の禅教師の資格、そして臨床心理士の資格ももたれている方です。僕が最初お目にかかったきっかけもカウンセリングでした。当時、精神的にも生活面でもにっちもさっちもいかない状況にあり、友人の紹介で受けにいきました。67年前のことです。

1年間のカウンセリング期間、青木先生は信仰を持ちだすことなく(僕はキリスト教が説く「許し」などの説明を期待していたのですが)傾聴に徹し、必要なところで現実的なアドバイスをくださいました。なにか非・宗教的というか、実用的。サバサバしていて、かといって冷たいわけでもない。そして、ものごとに動じない。何を相談したとしても。

いま思えばその「現実性」や「適度な距離感」、そして「安定感」は、深いところで禅の精神やイエスへの信仰に支えられていたのだと思います。

 

カウンセリングが一段落ついたところで「自分でできる、こころのトレーニングを」との僕のリクエストに応えるかたちで、三宝(当時「三宝教団)のとある坐禅会と御老師を紹介していただきました。それから約3年そこですわり、御老師から公案の指導もしていただき、会の皆様からもひとかたならぬ御恩をたまわりましたが、思うところあってそこを離れることに。

 

その後また青木先生の坐禅会でぼちぼちとすわらせていただくようになり、一昨年の冬に弟子にしていただき、公案の修行を再開して今日にいたります。

 

ここ最近、新たな参加者の方がふえていることもあって、会に行くのが楽しみになってきています。

鼻で観る

すこし遅くなりましたが、3日前の坐禅会のことを書きます。このところ家ですわる時間をふやしていることもあり、前回の日記で書いたところからもうひとつ、深く静かなところですわることができました。感覚的な話なので、ことばにするのはなかなか難しいですが、やってみます。

 

坐禅の方法はいくつかあって、1から10までくり返し息をかぞえる「数息感(すうそくかん)」、カウントなしで息の出入りを観ていく「随息観(ずいそくかん)」、指導者からいただいた公案に参ずる「公案(こうあん)」、ただひたすらすわる「只管打坐(しかんたざ)」が主なところでしょうか。

僕は数息観がいちばんやりやすくて気に入っているので、家や電車でやる時はだいたいが数息観です。ただ坐禅会ではシスターから公案をいただくので、公案とともにすわります。この日は2回の坐のうち、ひとつを公案にあて、もうひとつは随息観ですわりました。

公案は「師と弟子の間のやりとりのみ、他言無用」というルールがあるので、ここではふれません。ですので、ふたつ目の随息観について書きます。

 

公案がなじまず、気をとりなおそうと始めた随息観。この日二坐めだったこともあってか、呼吸は最初から整っていました。

あくまで感覚的にですが、へその下まで落としこむように、または引きこむように鼻から吸い、口はとじたまま鼻から出していきます。

日ごろさぼっていて久々にすわる時は、息が荒く、乱れています。スー〜〜〜ッと吸って、フーーーッ!と出す感じ。おもいきり力んでますね。これまたイメージですが、鼻からへそ下まで太いホースの中を、空気が上下しているような感覚。それくらい普段の生活では呼吸が浅くなっているんだと思います。ポンプ(強い呼吸)で息を引き上げる必要があるくらいに、胸主導で吸っている。

 

それがすわっているうちに、だんだんと細くちいさな息になってくるのが面白いところです。「ホース」の息だったのが、ストローくらいの細さに。さらに糸くらいに細く。息の強さも「スー〜〜、フーーー!」だったのが、「す、ふっ」くらいになっている。随息観は鼻先を出入りする息の感触で「息を観る」ので、呼吸のかすかな感じがよくわかります。

 

す、ふっ、す、ふっ、すとふ、すとふ………

 

ほとんど息が止まるくらいの。入る息と出る息がひとつになるような。鼻で観ています。

 

浅い呼吸ではありません。腹、腰まで息がみちみちている充実感、安定感がある。そして静か。この日はわりとすぐ、ここに入れました。

 

ぽっかり、バルーンの中にいる感覚。いっしょにすわってる人達ごと。聖堂ごと。この感覚はひさしぶりだな。

 

チカチカゆれるキャンドルのほのおが、やわらかくつたってきます。水の中、月あかりが漂うさざ波のように。

 

 チーーーーーーーーーーン!!!

 

耳というより頭を突きぬけるように、おわりの鐘がビリビリと。

 

あっという間の25分。ちいさな鐘で、さほど大きくない音なんですけどね。 

雑念をおしのけるもの

毎朝の坐禅は15分を1〜2回。タイマーがわりに15分で燃えきる小さな香を焚いているのですが、今日はひさびさに1時間のロングスティック香を。

 

………。

 

……………。

 

 

 

 長い!

 

なまじっか時間があるので、うっかり何度も気がぬけます。来週の予定ばかり考えてます。

 

15分の坐禅でも雑念はもちろんわくのですが、短期決戦で息をかぞえることに専念すれば、「かぞえるはたらき」が優勢のまま、逃げきることができます。いうなれば「1から10まで息をかぞえてるのに、よぎる雑念が邪魔をする」状況。あくまでメインは「息をかぞえる」で、雑念に主役を奪われてはいない。

 

今日も最初は「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえていたと思うんです。そこにたとえば「病室、白衣、あの人の顔」という「雑念」が、ことばとイメージでふつふつとわく。いつもの15分なら「ハイ、終わってから考えよう!」とかぞえを上書きできるんです。あと少しの辛抱と、かぞえることにもどれる。

 

でも今日はひさびさの長丁場だったので、「この1時間をどう乗りきろう?」ばかり考えてたんでしょうね。「お香の減り」ばかり気にしてました。「もういいかい?」と。「まあだだよ」と。こうなると、なかなか減りません。もれなく「病室がー」「先生がー」「リハビリがー」と考えの切れはしがついてきます。たちまち木曜に予定のリハビリテーションのシミュレートがはじまり、消えていきます。息をかぞえることは、どこかにとんでいる。

 

お香の長さに「集中」し、息をかぞえることに「没頭」できずにいる。雑念ばかりがくっきりする。木曜のリハビリ、どうしよう? 帰り、なに食おう? 月曜のミーティング、うわ明日!?

(坐禅がうまくいっている時は「集中」ではなく、「没頭」してる感じになります。集中は、頭と目がギューッと力んでる感じ。重たく、暗く、熱っぽい。没頭は、しずかで軽く、あかるい。思考の「重さ」を感じない)

 

そんな感じで「1時間ほぼ雑念」だった本日の坐禅ですが、残りわずかとなった時。

 

雑念にいいようにやられ、「来週のスケジュール会議」がひととおり済んだせいか、「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえるはたらきが、もどってくるではないですか。

 

「みっつ、よっつ、いつつ…」

さっきまでのとりとめない思考は引き、スムーズに息だけをかぞえている。

雑念そこのけそこのけと「息をかぞえるはたらき」が立ちのぼってくる。ぐいぐいと。ひとりでに。おれ、なんにもしてないよ?

 

こうなると雑念の出る幕はないです。1から10まで、息をかぞえるはたらきがくりかえされます。自律的な力です。

 

この感覚は15分の短い坐ではなかなか出てこないもの。最後の最後、短かかったと思いますが、それまでのすべてを帳消しにできるくらいの確かさがありました。途中でやめないで、よかったね。