息をかぞえて

禅・こころとからだ

僕の先生

昨日は定例の坐禅会。おもいがけない、よいことがありました。たまにこういうことが起こるから、やめられないし、継続は大事だなあと思います。今日とても元気です!

 

僕が参加している坐禅会とその指導者について、もう一度説明しておくことにします。

 

指導者はカトリック修道院「聖心会」のシスター、青木義子先生。

シスターでありながら宗教法人三宝禅」の禅教師の資格、そして臨床心理士の資格ももたれている方です。僕が最初お目にかかったきっかけもカウンセリングでした。当時、精神的にも生活面でもにっちもさっちもいかない状況にあり、友人の紹介で受けにいきました。67年前のことです。

1年間のカウンセリング期間、青木先生は信仰を持ちだすことなく(僕はキリスト教が説く「許し」などの説明を期待していたのですが)傾聴に徹し、必要なところで現実的なアドバイスをくださいました。なにか非・宗教的というか、実用的。サバサバしていて、かといって冷たいわけでもない。そして、ものごとに動じない。何を相談したとしても。

いま思えばその「現実性」や「適度な距離感」、そして「安定感」は、深いところで禅の精神やイエスへの信仰に支えられていたのだと思います。

 

カウンセリングが一段落ついたところで「自分でできる、こころのトレーニングを」との僕のリクエストに応えるかたちで、三宝(当時「三宝教団)のとある坐禅会と御老師を紹介していただきました。それから約3年そこですわり、御老師から公案の指導もしていただき、会の皆様からもひとかたならぬ御恩をたまわりましたが、思うところあってそこを離れることに。

 

その後また青木先生の坐禅会でぼちぼちとすわらせていただくようになり、一昨年の冬に弟子にしていただき、公案の修行を再開して今日にいたります。

 

ここ最近、新たな参加者の方がふえていることもあって、会に行くのが楽しみになってきています。

鼻で観る

すこし遅くなりましたが、3日前の坐禅会のことを書きます。このところ家ですわる時間をふやしていることもあり、前回の日記で書いたところからもうひとつ、深く静かなところですわることができました。感覚的な話なので、ことばにするのはなかなか難しいですが、やってみます。

 

坐禅の方法はいくつかあって、1から10までくり返し息をかぞえる「数息感(すうそくかん)」、カウントなしで息の出入りを観ていく「随息観(ずいそくかん)」、指導者からいただいた公案に参ずる「公案(こうあん)」、ただひたすらすわる「只管打坐(しかんたざ)」が主なところでしょうか。

僕は数息観がいちばんやりやすくて気に入っているので、家や電車でやる時はだいたいが数息観です。ただ坐禅会ではシスターから公案をいただくので、公案とともにすわります。この日は2回の坐のうち、ひとつを公案にあて、もうひとつは随息観ですわりました。

公案は「師と弟子の間のやりとりのみ、他言無用」というルールがあるので、ここではふれません。ですので、ふたつ目の随息観について書きます。

 

公案がなじまず、気をとりなおそうと始めた随息観。この日二坐めだったこともあってか、呼吸は最初から整っていました。

あくまで感覚的にですが、へその下まで落としこむように、または引きこむように鼻から吸い、口はとじたまま鼻から出していきます。

日ごろさぼっていて久々にすわる時は、息が荒く、乱れています。スー〜〜〜ッと吸って、フーーーッ!と出す感じ。おもいきり力んでますね。これまたイメージですが、鼻からへそ下まで太いホースの中を、空気が上下しているような感覚。それくらい普段の生活では呼吸が浅くなっているんだと思います。ポンプ(強い呼吸)で息を引き上げる必要があるくらいに、胸主導で吸っている。

 

それがすわっているうちに、だんだんと細くちいさな息になってくるのが面白いところです。「ホース」の息だったのが、ストローくらいの細さに。さらに糸くらいに細く。息の強さも「スー〜〜、フーーー!」だったのが、「す、ふっ」くらいになっている。随息観は鼻先を出入りする息の感触で「息を観る」ので、呼吸のかすかな感じがよくわかります。

 

す、ふっ、す、ふっ、すとふ、すとふ………

 

ほとんど息が止まるくらいの。入る息と出る息がひとつになるような。鼻で観ています。

 

浅い呼吸ではありません。腹、腰まで息がみちみちている充実感、安定感がある。そして静か。この日はわりとすぐ、ここに入れました。

 

ぽっかり、バルーンの中にいる感覚。いっしょにすわってる人達ごと。聖堂ごと。この感覚はひさしぶりだな。

 

チカチカゆれるキャンドルのほのおが、やわらかくつたってきます。水の中、月あかりが漂うさざ波のように。

 

 チーーーーーーーーーーン!!!

 

耳というより頭を突きぬけるように、おわりの鐘がビリビリと。

 

あっという間の25分。ちいさな鐘で、さほど大きくない音なんですけどね。 

雑念をおしのけるもの

毎朝の坐禅は15分を1〜2回。タイマーがわりに15分で燃えきる小さな香を焚いているのですが、今日はひさびさに1時間のロングスティック香を。

 

………。

 

……………。

 

 

 

 長い!

 

なまじっか時間があるので、うっかり何度も気がぬけます。来週の予定ばかり考えてます。

 

15分の坐禅でも雑念はもちろんわくのですが、短期決戦で息をかぞえることに専念すれば、「かぞえるはたらき」が優勢のまま、逃げきることができます。いうなれば「1から10まで息をかぞえてるのに、よぎる雑念が邪魔をする」状況。あくまでメインは「息をかぞえる」で、雑念に主役を奪われてはいない。

 

今日も最初は「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえていたと思うんです。そこにたとえば「病室、白衣、あの人の顔」という「雑念」が、ことばとイメージでふつふつとわく。いつもの15分なら「ハイ、終わってから考えよう!」とかぞえを上書きできるんです。あと少しの辛抱と、かぞえることにもどれる。

 

でも今日はひさびさの長丁場だったので、「この1時間をどう乗りきろう?」ばかり考えてたんでしょうね。「お香の減り」ばかり気にしてました。「もういいかい?」と。「まあだだよ」と。こうなると、なかなか減りません。もれなく「病室がー」「先生がー」「リハビリがー」と考えの切れはしがついてきます。たちまち木曜に予定のリハビリテーションのシミュレートがはじまり、消えていきます。息をかぞえることは、どこかにとんでいる。

 

お香の長さに「集中」し、息をかぞえることに「没頭」できずにいる。雑念ばかりがくっきりする。木曜のリハビリ、どうしよう? 帰り、なに食おう? 月曜のミーティング、うわ明日!?

(坐禅がうまくいっている時は「集中」ではなく、「没頭」してる感じになります。集中は、頭と目がギューッと力んでる感じ。重たく、暗く、熱っぽい。没頭は、しずかで軽く、あかるい。思考の「重さ」を感じない)

 

そんな感じで「1時間ほぼ雑念」だった本日の坐禅ですが、残りわずかとなった時。

 

雑念にいいようにやられ、「来週のスケジュール会議」がひととおり済んだせいか、「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえるはたらきが、もどってくるではないですか。

 

「みっつ、よっつ、いつつ…」

さっきまでのとりとめない思考は引き、スムーズに息だけをかぞえている。

雑念そこのけそこのけと「息をかぞえるはたらき」が立ちのぼってくる。ぐいぐいと。ひとりでに。おれ、なんにもしてないよ?

 

こうなると雑念の出る幕はないです。1から10まで、息をかぞえるはたらきがくりかえされます。自律的な力です。

 

この感覚は15分の短い坐ではなかなか出てこないもの。最後の最後、短かかったと思いますが、それまでのすべてを帳消しにできるくらいの確かさがありました。途中でやめないで、よかったね。

 

 

山を歩く

飯能、武蔵五日市。先月、今月とつづけて山を歩いてきました。ともに標高300メートル以下の低い山。入って出るまで3〜4時間。登山の準備をしなくても、普段着でカバンを肩に歩けます。

 

とはいえ。

 

ふだん昇り降りしている駅の階段とくらべると、やはり勾配は急で、傾斜も一定ではない。ハアハアと息はあがり、太ももはパンパンにつっぱる。どんどん緑は濃くふかくなり、風は静かにひんやりしてくる。細くなる道すじ。また広くなったり、曲がったり。

 

マムシに注意!」

 

いきなりの看板にドキリとします。

 

耳をすませば、ゴクリとのんだ唾の音。荒くなった自分の息。きいろくひびく鳥のさえずり。ザザザとざわめく木々の緑。

 

「よし大丈夫」と、再びザクザク歩きます。ところどころに標識は出てきますが、はじめて歩く道なので、どこまで続くか、何がとびだすか、わからない。石ころ、砂利道、ぬかるみ、藪。きゅうにバッとひらける崖。ミドリのにおい、ひろがる空。ずうっと下の方から、黒ぐろと木々が伸びてくる。落ちたら助からない高さに、思わず足がすくみます。肌から骨までサッと一瞬でひきしまる。

 

いや、助からないことはないのですが。息を落ち着けてよく見ると、それほどの高さではない。でも財布や帽子を落としたら、ぜったい取りにいけないな。

低くても山は山。街中ではぜったいに味わえない怖さがあります。でも体じゅうが目をさますというか、怖さが進む力になる。ハハハ!と笑いがこみあげる。

 

おお!休憩所です。ほっと腰を下ろします。ひとつ、ふたつ息を数えるまでもなく、無心で坐れます。鳥のさえずり、頬をなでる風。ペットボトルからながれこむ水。木々、ミドリ、アオ、シロ、光。

ふだん考えごとばかりしてる頭の中が消え、山が体じゅうになる感じ。ふみしめる足と土はひとつ。山を歩いているうちに、山が歩きはじめる。足をとられそうな下り坂をふんばりふんばり、おりていきます。

 

 

 

 

 

 

となりにすわる人

きのうは定例の坐禅会の日。今回はど忘れすることなく、無事参加できました。SNSで会のことを知った、僕の武術仲間の男性をつれていくこともあって。

 

たまに男性客の訪問もあるのですが、会の参加者はほとんどみんな、いつも女性。先生もシスターですので、「男は今までオレひとりだったのか!?」と今さらながらに気づく坐となりました。

 

かすかなんですけど、やはり明らかにちがうんですよね。すわってる時のかんじが。

 

十字架のイエスを前に、右はしにシスター。そのとなりに僕と彼で男ふたり。そのとなり、いち、にい、さん、し、と女性がならぶ。座蒲の上、息をかぞえてすわります。

 

いつもだと、海の白い浅瀬で、どこまでもプカプカと波がひろがっていくような感覚に聖堂が包まれるのですが、昨日はそこに、太い樹がずん!と立ってる感じが加わりました。オレンジっぽい色。熱っぽい。

 

男、なんですね。

 

シンボルの世界で「海は女」で「樹木は男」なのかは知りませんが、僕の感覚は、そうでした。陰陽のバランスがとれ、坐にメリハリがつく感じ。いつも以上に、とてもよくすわれました。

 

現実の海でも、抵抗せずに身をまかせればプカプカ浮くことができるし、公園とかで大きな木を見つけると、近づいてスッと寄りかかりたくなる。安心するんですよね。

 

女性があつまると、そこには涼しいさざなみのような空間が広がり、男がそこに加わると、ずしんと大地に根をおろす。ぼわっと熱くなる。

 

だまって息をかぞえ、しずかにすわっているうちに、そんな景色が見えてきました。

たしかに、この世界は、人と人でできている。

 

「人はただ存在しているだけで価値がある」

とか何とか言葉にすると、とたんに「うそつけー」ってなりますが、その人が言いあらわしたかった感覚も、あるいはこういうことだったのかな?と思ったりして。

すぐにまた忘れて、電車やカフェで見知らぬ人にイラッとくると思うんですけど。うるさいやつ。感じ悪いやつ。 男も女もかんけいない。でも本当は、そうじゃないんだろうな。

 

となりにひとりいるだけで、ひとりじゃなくなるんですよ。

 

 

 

 

坐禅を組むと。

汗ばむ陽気にブルゾンをぬぎます。アンダーシャツのすそをジーンズから出すと、こもっていた熱がぬけていきます。風通しがよくなる。

4月6日。新年度、新学期。吉祥寺駅前の混雑も、すこし落ち着いた感じです。

 

いつも朝おきると坐禅を組みます。

チャイハネとかのエスニック雑貨のお店で買ってきたお香をたいて、1から10まで繰り返し繰り返し、息を数えます。

15分。余裕のある時はもう15分。香が燃えつきるのがだいたい15分。

ジャスミンとかサンダルとか、何種類かのいろんな香りをその日の気分でえらびます。飽きがこないように。

顔をあらい、歯をみがき、シャワーをあびて、坐禅を組む。朝ごはんのバナナをたべる。順番は日によって前後しますが、おかげさまで日課のひとつになっています。

なるべくネットをつなぐ前に。ねむりの余韻をいかせるように。頭の中がしずかなうちに。

 

いそがしい時、仕事でテンパってる時、ねぼうしてそれどころじゃない時はさぼってるようですが( 後で気づく)、本当はそういう時ほど坐禅が必要なんですよね。こころをニュートラルにもどしてくれるから。あー、あと落ち込んでる時ね。だるい時。グレーな時。なにもかもめんどくさい時。そういう時はすわれない。

 

すわるの、けっこう体力いりますから。そういう時は二度寝に時間をまわします(笑)。無理しないのも、つづけるひけつと思います。また元気な日に、きっちりすわればいい。さぼってもだいじょうぶ。一度、体に坐禅がインストールされると、勝手に再起動します。すわりたくて、ムズムズしてくる。

 

こころがニュートラルだと、体も軽くなる気がします。空気を入れ、油をさした自転車のように。

僕にはルーズなところがあるので、自転車にこまめに空気を入れたり、油をさすこともなく、ギコギコキーキーと重いペダルをこいでいるのですが、たまに空気を入れ、油をさした時の、スイスイ走ってくれること!

坐禅を組んでから家を出ると、そう、空気をいれたタイヤのように、パンパンの状態で歩けます。パンパンなのは体か、こころか、どこなのか、よくわからないけど。肩の力もぬけ、足腰はじめ体のそこここのいろんな関節も、油をさしたチェーンのように、スイスイなめらかにうごく気がします。

らくな感じです。

礼拝堂の坐禅

かれこれ7〜8年? 指導者について坐禅を組むようになり、それくらい経ちます。

今は広尾の聖心女子大学修道院でおこなわれている坐禅会に通っています。主宰者はカトリック(聖心会)のシスターで、在家の禅団体(三宝禅)でも修行されて禅教師の資格をとられた方です。信仰の有無をとわず、入会制度や会費もない、自由参加の坐禅会をおこなっています。僕も特定の信仰は持たないので、「在家の禅者」という立場で坐禅に取り組んでいることになります。

夕陽が背中から差し込む、こじんまりとした礼拝堂ですわります。1時間を25分ずつ2回にわけてすわります。十字架のイエスの前ですわります。坐蒲(ざふ)の上、脚を組んですわります。

礼拝堂での坐禅は、男性的でモノクロームな寺の禅堂でおこなうのとは、やはり少しちがいます。あたたかくやわらかい静けさ。ふんわりきよめられた感じ。女子修道院ですしね。ユリなど季節の花がいつも活けられており、目に心に、うるおいがもどります。しおれているのを見たことがありません。堂内もとてもきれいに掃除されています。

帰り途はなんだか、花のようにすっきり歩けます。渋谷の人ごみを歩きます。

本当は昨日も坐禅会の日でしたが、友達と会う約束をうっかり入れ、休んでしまいました。ほぼ毎回参加しているのに、たまにど忘れする。手帳を持っているのに、なぜ使わないのか?

ひとつ、ふたつと息を数える。間が抜ける。なかなかなおってくれません。