息をかぞえて

禅・こころとからだ

山を歩く

飯能、武蔵五日市。先月、今月とつづけて山を歩いてきました。ともに標高300メートル以下の低い山。入って出るまで3〜4時間。登山の準備をしなくても、普段着でカバンを肩に歩けます。

 

とはいえ。

 

ふだん昇り降りしている駅の階段とくらべると、やはり勾配は急で、傾斜も一定ではない。ハアハアと息はあがり、太ももはパンパンにつっぱる。どんどん緑は濃くふかくなり、風は静かにひんやりしてくる。細くなる道すじ。また広くなったり、曲がったり。

 

マムシに注意!」

 

いきなりの看板にドキリとします。

 

耳をすませば、ゴクリとのんだ唾の音。荒くなった自分の息。きいろくひびく鳥のさえずり。ザザザとざわめく木々の緑。

 

「よし大丈夫」と、再びザクザク歩きます。ところどころに標識は出てきますが、はじめて歩く道なので、どこまで続くか、何がとびだすか、わからない。石ころ、砂利道、ぬかるみ、藪。きゅうにバッとひらける崖。ミドリのにおい、ひろがる空。ずうっと下の方から、黒ぐろと木々が伸びてくる。落ちたら助からない高さに、思わず足がすくみます。肌から骨までサッと一瞬でひきしまる。

 

いや、助からないことはないのですが。息を落ち着けてよく見ると、それほどの高さではない。でも財布や帽子を落としたら、ぜったい取りにいけないな。

低くても山は山。街中ではぜったいに味わえない怖さがあります。でも体じゅうが目をさますというか、怖さが進む力になる。ハハハ!と笑いがこみあげる。

 

おお!休憩所です。ほっと腰を下ろします。ひとつ、ふたつ息を数えるまでもなく、無心で坐れます。鳥のさえずり、頬をなでる風。ペットボトルからながれこむ水。木々、ミドリ、アオ、シロ、光。

ふだん考えごとばかりしてる頭の中が消え、山が体じゅうになる感じ。ふみしめる足と土はひとつ。山を歩いているうちに、山が歩きはじめる。足をとられそうな下り坂をふんばりふんばり、おりていきます。

 

 

 

 

 

 

となりにすわる人

きのうは定例の坐禅会の日。今回はど忘れすることなく、無事参加できました。SNSで会のことを知った、僕の武術仲間の男性をつれていくこともあって。

 

たまに男性客の訪問もあるのですが、会の参加者はほとんどみんな、いつも女性。先生もシスターですので、「男は今までオレひとりだったのか!?」と今さらながらに気づく坐となりました。

 

かすかなんですけど、やはり明らかにちがうんですよね。すわってる時のかんじが。

 

十字架のイエスを前に、右はしにシスター。そのとなりに僕と彼で男ふたり。そのとなり、いち、にい、さん、し、と女性がならぶ。座蒲の上、息をかぞえてすわります。

 

いつもだと、海の白い浅瀬で、どこまでもプカプカと波がひろがっていくような感覚に聖堂が包まれるのですが、昨日はそこに、太い樹がずん!と立ってる感じが加わりました。オレンジっぽい色。熱っぽい。

 

男、なんですね。

 

シンボルの世界で「海は女」で「樹木は男」なのかは知りませんが、僕の感覚は、そうでした。陰陽のバランスがとれ、坐にメリハリがつく感じ。いつも以上に、とてもよくすわれました。

 

現実の海でも、抵抗せずに身をまかせればプカプカ浮くことができるし、公園とかで大きな木を見つけると、近づいてスッと寄りかかりたくなる。安心するんですよね。

 

女性があつまると、そこには涼しいさざなみのような空間が広がり、男がそこに加わると、ずしんと大地に根をおろす。ぼわっと熱くなる。

 

だまって息をかぞえ、しずかにすわっているうちに、そんな景色が見えてきました。

たしかに、この世界は、人と人でできている。

 

「人はただ存在しているだけで価値がある」

とか何とか言葉にすると、とたんに「うそつけー」ってなりますが、その人が言いあらわしたかった感覚も、あるいはこういうことだったのかな?と思ったりして。

すぐにまた忘れて、電車やカフェで見知らぬ人にイラッとくると思うんですけど。うるさいやつ。感じ悪いやつ。 男も女もかんけいない。でも本当は、そうじゃないんだろうな。

 

となりにひとりいるだけで、ひとりじゃなくなるんですよ。

 

 

 

 

坐禅を組むと。

汗ばむ陽気にブルゾンをぬぎます。アンダーシャツのすそをジーンズから出すと、こもっていた熱がぬけていきます。風通しがよくなる。

4月6日。新年度、新学期。吉祥寺駅前の混雑も、すこし落ち着いた感じです。

 

いつも朝おきると坐禅を組みます。

チャイハネとかのエスニック雑貨のお店で買ってきたお香をたいて、1から10まで繰り返し繰り返し、息を数えます。

15分。余裕のある時はもう15分。香が燃えつきるのがだいたい15分。

ジャスミンとかサンダルとか、何種類かのいろんな香りをその日の気分でえらびます。飽きがこないように。

顔をあらい、歯をみがき、シャワーをあびて、坐禅を組む。朝ごはんのバナナをたべる。順番は日によって前後しますが、おかげさまで日課のひとつになっています。

なるべくネットをつなぐ前に。ねむりの余韻をいかせるように。頭の中がしずかなうちに。

 

いそがしい時、仕事でテンパってる時、ねぼうしてそれどころじゃない時はさぼってるようですが( 後で気づく)、本当はそういう時ほど坐禅が必要なんですよね。こころをニュートラルにもどしてくれるから。あー、あと落ち込んでる時ね。だるい時。グレーな時。なにもかもめんどくさい時。そういう時はすわれない。

 

すわるの、けっこう体力いりますから。そういう時は二度寝に時間をまわします(笑)。無理しないのも、つづけるひけつと思います。また元気な日に、きっちりすわればいい。さぼってもだいじょうぶ。一度、体に坐禅がインストールされると、勝手に再起動します。すわりたくて、ムズムズしてくる。

 

こころがニュートラルだと、体も軽くなる気がします。空気を入れ、油をさした自転車のように。

僕にはルーズなところがあるので、自転車にこまめに空気を入れたり、油をさすこともなく、ギコギコキーキーと重いペダルをこいでいるのですが、たまに空気を入れ、油をさした時の、スイスイ走ってくれること!

坐禅を組んでから家を出ると、そう、空気をいれたタイヤのように、パンパンの状態で歩けます。パンパンなのは体か、こころか、どこなのか、よくわからないけど。肩の力もぬけ、足腰はじめ体のそこここのいろんな関節も、油をさしたチェーンのように、スイスイなめらかにうごく気がします。

らくな感じです。

礼拝堂の坐禅

かれこれ7〜8年? 指導者について坐禅を組むようになり、それくらい経ちます。

今は広尾の聖心女子大学修道院でおこなわれている坐禅会に通っています。主宰者はカトリック(聖心会)のシスターで、在家の禅団体(三宝禅)でも修行されて禅教師の資格をとられた方です。信仰の有無をとわず、入会制度や会費もない、自由参加の坐禅会をおこなっています。僕も特定の信仰は持たないので、「在家の禅者」という立場で坐禅に取り組んでいることになります。

夕陽が背中から差し込む、こじんまりとした礼拝堂ですわります。1時間を25分ずつ2回にわけてすわります。十字架のイエスの前ですわります。坐蒲(ざふ)の上、脚を組んですわります。

礼拝堂での坐禅は、男性的でモノクロームな寺の禅堂でおこなうのとは、やはり少しちがいます。あたたかくやわらかい静けさ。ふんわりきよめられた感じ。女子修道院ですしね。ユリなど季節の花がいつも活けられており、目に心に、うるおいがもどります。しおれているのを見たことがありません。堂内もとてもきれいに掃除されています。

帰り途はなんだか、花のようにすっきり歩けます。渋谷の人ごみを歩きます。

本当は昨日も坐禅会の日でしたが、友達と会う約束をうっかり入れ、休んでしまいました。ほぼ毎回参加しているのに、たまにど忘れする。手帳を持っているのに、なぜ使わないのか?

ひとつ、ふたつと息を数える。間が抜ける。なかなかなおってくれません。

息をかぞえて

あれもちがう。これもちがう。

なにが正しいかわからなくなって、

ずいぶんたつ。

たしかなものがなくなった。

なんとなくいつも不安だ。

じっとしていられない。

 

ふらふらあるく。

ひまをつぶす。

にげこむように、ねむりにつく。

 

すぅすぅときこえてくる。

ぼんやりとあかるくなる。

すって、はいて、すっている。

さっきまで、

とけてういていたような気もする。

ふうっ、とはく。よだれをぬぐう。

 

すってはく。

ずっと前からくりかえしている。

さいしょにすったのはいつだろう?

 

目やにをこすり、いつものようにすわる。

ひとーつ。

ふたーつ。

すってはいて、息をかぞえる。

みっつ。

よっつ。

チッチチ、チュッチュ。

カー!カー!

クワア!

まわりが白くひろがりはじめる。

名前をつけるなら「朝」。

 

やーっつ。ここの、つ。

十までいったら、一からはじまる。

はじめとおわりがつながっていく。

だんだんしずかになっていく。

つぎめがきえて、わっかになる。

じっとしている。

じっとしている。

 

すって、はく、すってはく。

ここからはなれたことはない。

今日もふらふらあるくだろう。

だけどいつでも、ここにいる。

 

すっている。はいている。

とまることなく、つづいてる。

みんなしってる、たしかなことだ。

ここからはじめようと、わたしはおもう。