息をかぞえて

禅・こころとからだ

『沈黙』『原初のヨーガ』おすすめの本2冊

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267日ぶりの更新、のようです。

 

新型コロナ禍、なかなか治まらないですね。坐禅会もヨーガ教室もずっと休みつづきですが(感染者数減のタイミングでたま〜に行けてます)、あろうことか東京オリンピック開催とか、いままでのコロナ対策をすべて帳消しにする暴挙。

 

オリンピックのような集金イベントも、それを支える20世紀的な政治経済も、いまの在り方にはそぐわなくなっていて、これからもボロボロくさり、くずれつづけていくのだろうと思ってみています。

 

さて、おすすめの本を紹介します。

 

1冊目は『沈黙』(春秋社)。今年の4月に発行された、ヴェトナムの禅僧(マインドフルネスの人として有名かもしれませんが)ティク・ナット・ハンの講話集です。この方の本は過去にも何冊かよみましたが、この本は過去のどの本より良かった。瞑想の本質がストレートに、はじめての人にも理解できるように、身近なものとして伝わってきます。

坐禅や瞑想をある程度つづけて、堂々めぐりでモヤモヤしてるような人にも良いと思います。すでにふれてきている自分の本質(すなわち沈黙)に引きもどしてくれると思います。

 

副題がまた良いですね。「雑音まみれの世界のなかの静寂のちから」。タイムリーです。

 

おすすめの本、もう1冊が『原初のヨーガ』(新泉社)。こちらも今年4月に出た本で、ヨーガ指導者の塩澤賢一による、ヨーガ瞑想の解説書です。塩澤氏は東京と神奈川を中心にハタヨーガを指導していて、私も(コロナ禍までは)教室に毎週通っていました。こちらの本は私も制作に携わりました。いきなり宣伝になって恐縮です!

 

手前みそですが『原初のヨーガ』は、呼吸と瞑想の関係性、呼吸とアーサナとプラーナ(生気)の関係性が、はじめての人にもよくわかる本になっていると思います。

 

僕自身の経験としては、中国武術(武術気功)を20代から10年、坐禅を30代から15年(継続中)、ハタヨーガを40代から約4年(継続中)と、いろいろな修行方法が体の中でごちゃ混ぜになっているのですが、いちばんしっくりくるのは坐禅のようです。「無字」の公案で、吸って吐いてムー(無)とやるのが一番しっくりきます。

ただ悲しいかな、坐禅一本ですすんでいけるだけの才能も根気もないので、ともすればすぐに無字がわからなくなってしまう(むしろ無字をわかろうとしてしまうのかもしれない)。

 

そういう時に、たとえば今回の『沈黙』のようなマインドフルネス的なアプローチや、ハタヨーガ的な「呼吸をプラーナとして瞑想でひろげる」などの逃げ道があってくれると、そこから無字をまたあらたに見つけることができます。

 

気になる方は読んでみてください。

 

『沈黙』

https://www.amazon.co.jp/沈黙-雑音まみれの世界のなかの静寂のちから-ティク・ナット・ハン/dp/4393333837/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=2YH4G468MRHLP&dchild=1&keywords=ティク+ナット+ハン&qid=1627011917&s=books&sprefix=ティク・ナット%2Caps%2C342&sr=1-3

 

『原初のヨーガ』

www.amazon.co.jp

 

坐禅は逃げない

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広尾の聖心会での青木義子先生の坐禅会が10月から再開しました。新型コロナウイルスの影響で3月からずっとお休みでしたが、半年ぶりの再開です。しばらくは人数も限定してマスク着用となりますが、やはりここの礼拝堂はとてもすわりやすい!ふだんからシスターの皆様が祈られ、瞑想され、黙想されているので、場ができあがっています。ひさしぶりに来ると、そのことがよくわかります。禅定の入りやすさでいえば、おうちのお風呂で泳ぐのと、広い海で泳ぐくらいの違いがありますね。自分の部屋とくらべると。

久しぶりの広尾は新しいパン屋ができていたり、ひいきにしていたフードトラックがいつもの場所で店を出していたりと、見慣れた街並みを初めて歩くような感慨がありました。

礼拝堂の庭には見たことのない、むらさきのバラが咲いていました。

 

数ヶ月前のステイホームの自粛期間は先が見えずに苦しみましたが、坐禅は逃げないなあと今は思います。

 

坐禅のあと青木先生が少し話をされて、「現成(げんじょう)を受け入れる」という話でした。鎌倉の三宝禅のご老師がされた話で、鎌倉の禅堂の庭でしょうか、10年前に2センチくらいの松の芽が岩の裂け目に落ちてしまい、何もせず水もやらずにいたのが、今ではそこから伸びた松が50センチくらいになっている、そんな話でした。

「自分が」何もしなくても、起こることは起こるので、起きたことを受け入れていく。それが「現成を受け入れる」ということなのかな?と思いました。自分を勘定に入れない。

坐禅を組んでいると逃げられなくなるので、僕のように好き嫌いの激しい人間にとっては「受け入れたくないことも受け入れる」ための良い訓練になっています。逃げられないことがわかると、逃げなくてもいいことがわかってくるというか。逃げたくなるようなことが次々と起きて、逃げられそうな場所はどんどん減ってきてますからね。「逃げない気構え」があると、ずいぶん楽になると思います。

坐禅のことは坐禅にきけ

新型コロナウイルスの影響で、坐禅会が春からずっと休みになっていて、週に一度、同じ曜日、同じ時間に、先生と参加者ですわることにはなっているのですが、都合が合わない週もあり、どうしたものかと思っています。

 

Zoomを使うという感じでもなく。

 

特に独参での公案は、密な空気で伝わるものなので、PCやスマホの液晶、スピーカーでは、伝達できないでしょうね。

 

坐禅会が休止になって、すわる時間が減ったかといえば、そうでもないのが面白いところです。むしろ自主性は増してきている気もします。ひとりで行なうがゆえの気づきもあることもわかってきました。

 

坐禅のことは、坐禅にきくのが一番ということです。

 

本を読むより、人に聞くより、坐禅のことは坐禅にきくのが一番です。

本に書かれていることも、人の言っていることも、あくまで二次的な情報で、自分の体験ではないからです。

 

誰でも坐禅を組んでいる時は、坐禅そのものにふれています。そのことを自覚できるかどうかが、初心者と長くすわっている人のちがいで、はじめのうちは普段の意識と何がちがうのかわからないくらいに、ぼんやりとはしていますが、それはぼんやりしているだけで、ふれていないわけではありません。自覚なきまま、ばっちり坐禅にふれています。

 

ですからよくわからなくても、すわりつづけていればその感触はなじんでくるし、ぼんやりしていた坐禅のすがたもはっきりしてくるはずです。偶然にでもピントの合う瞬間があり、ピントを合わせるコツもつかめてきます。

 

ただ坐禅をほどいた後は、頭脳による思考が戻ってくるので、坐禅で得た(触覚、聴覚優位の)体験を、言葉で、思考で、辻褄があうよう解釈してしまい、その解釈とさっきの体験のあいだに(必ず)生じるズレが積み重なり、大きくなりすぎると、間違った解釈、誤解がうまれることになります。

 

ずーっとひとりですわっていると、この誤解に修正が入らず、ひとり歩きを始める危険性はあります。ですから答え合わせ的に、信頼のおける先生や老師に、自分の見解をたしかめてもらう必要はやはりあります。本を読んでセルフチェックするのもよいですが、本は自分に都合よく「読み違える」可能性があるので、やはり人にたしかめてもらう必要があります。「それはちがう!」とはっきり言ってくれるのは、やはり人ですから。

 

ただ先生にしても老師にしても、どこから学んでいるかといえば、やはり日々の坐禅そのものから学んでいると思うのです。どんな先生も過去に、そのまた先生から学んだことでしょうが、そのときも人はあくまで伝え手であり、「伝わるそのもの」ではないはずです。

 

もちろん「坐禅の権化」のような人はいて、そういう人は一挙手一投足が禅の表現で、その人の真似をしているうちに、形から入ったものが板についてくる、という可能性もあるでしょう。

 

ただその時も、その人を見聞きするというよりは、その人が見聞きしているものを見聞きできているか、だと思います。

 

そうなると、やはり自分ひとりですわる時、先生がそうしているであろうように、自分の坐禅から学ぶことが一番大事で、またそれが一番の近道になると思うのです。

 

先生(人)の先生(坐禅)からまなび、先生(人)にたしかめてもらうというプロセス。その繰り返し。。。

 

坐禅のことは、坐禅にきく。坐禅の一番の先生は、坐禅するという行為そのもの。答えはいつもそこにある。

 

瞑想にしても同じことで、瞑想のことは瞑想にきくのが、やはり一番だと思います。

 

 

SNSで坐禅なんて…

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4月6日から8日までの3日間、フィリピン発のオンライン坐禅会"Universal Sesshin"に参加していました。

部屋でコンピューターをつけ、1回すわるごとにViberというSNS(LINEみたいなやつ)に"Ready to sit(これからすわります)" "Done Sitting(いまおわりました)"と報告し、朝6時半から夜9時半まで休憩をいれつつ、1日8時間の3日間。

 

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Sound Cloudに提唱(老師たちによる、公案禅についてのお話)もアップされていたので、合間、合間で聞いていました。すべて英語ですが、日本語のようなあいまいな言い回しがないので、英語がすこしできれば、日本語の提唱よりもロジカルでわかりやすいかもしれません。「無字」の公案での呼吸のしかたなど、とても参考になりました。

 

soundcloud.com

 

今回の"Universal Sesshin"には約150名が参加していたようです。全員がフルタイムの参加ではありませんが、フィリピンだけでなく、他の国や地域からの参加もあったようです。オンラインですからね。時差の壁はありますが(日本はプラス1時間だったので助かりました)、世界のどこからでもエントリーできます。

 

SNS坐禅なんて…」とさいしょは僕も値ぶみするような気持ちだったのですが、これが意外とよくすわれたのです。

 

まわりに誰もいないので、禅堂でみんなとすわるよりは自分に甘くなり、ごまかせる部分も出てはくるのですが、一度ペースがつかめると、もう関係なくなりますね。乗り込んだ飛行機からは降りられないように、「坐禅に連れていかれる」ように、なんだかんだ最後まですわれました。

 

ぼくも今、仕事が止まっていて、時間はもてあましているし、ロックダウンのうわさやらで外にも出づらくなっていたので、「こうなりゃ、とことんすわってみるか!」とか思ったりもしたのですが、ひとりだと2〜3時間が限度でした。途中で横になったら5時間くらい寝ちゃったり(笑)。ひとりで8時間すわれと言われても、たぶん無理です。とくに今のような、先のことが見えづらい時には。

 

やはり何かのきっかけというか、「みんなですわる」ということが、坐禅をおしすすめる力になるんでしょうね。距離の壁を超えてくるものがある。

 

今回の参加者にはカトリックの方々も多かったようで、「世界のために皆で祈りましょう」みたいな側面もあったようです。僕にはあまりその意識はなかったのですが、最終日の最後の坐を解くとき、すこしその気持ちが出てきました。見ず知らずの人たちの苦しみも想像できる、心のゆとりだったのかもしれません。

 

他人とはぶつかりあい、いがみあうこともありますが、いくらつっぱっても結局ひとりでは何もできないのだと、一時停止している世界の中で実感しています。おおきな目でみれば、助け合っていくしかないんですよね。ちいさなことでもいいから、具体的な行動で。

 

仕事であれ、生きかたであれ、今までやってきたことができなくなっているのなら、今までやってなかったけど、今からできそうなこと、今やるべきことを、みつける必要があるんでしょうね。もしかしたらそれは、今はまだ楽しいとは思えないことかもしれないけれど…。

 

※今回の坐禅会は”Zen Center Philippines"という団体の主催で、ここは鎌倉に本部がある在家の宗教法人「三宝禅」に属する団体です。僕は三宝禅の禅教師でもある、聖心会のシスターの青木義子先生に師事しており、今回も青木先生からのおしらせで、このあつまりに参加しました。

http://zenphilippines.org.ph

 

 

こころを体に閉じこめない

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東京は雪です。春分はすぎていますが、この冬やっと雪らしい雪がふった気もします。土曜日曜と、新型ウィルス感染拡大防止のため、外出をひかえるお達しが出ていることもあり、気持ちはどうしても内向きに。どんより重くなりがちです。

 

これをよんでいる人のどれくらいが、坐禅や瞑想を実践しているかはわかりませんが、一応みなさん心得なり興味なりある方々として、話をすすめます。

 

毎日じーっとすわっていると、こころとからだの状態(動き、はたらき)がよく意識できるようになってきます。息が休まるにつれ想念の起こりがささやかになり、身体感覚も想念の一種だからか、体の感覚もふだんの「肉体の輪郭」的なふとい線状の感覚から、ばらばらにほどけた「こまかい糸くず」のようなものへと変わってきます。

 

「これが私の体だ!」という輪郭的な感覚に、こまかいすきまがたくさんうまれてくるというか。

 

今、目の前にある窓からは、ひらひらと落ちていく雪のかけらが見えていて、とてもきれいなのですが、この感じにも似ていますね。

 

ふだんは自分の体のことを「雪だるま」みたいに「輪郭のはっきりした、実体のあるもの」と認識していると思うのですが、そのひとつかふたつ手前の段階にもどったような気分。ひらひらと落ちきて、とけてはきえる、無数の雪。まっしろな雪。つかみどころがなく、でも不安ではない。

 

坐禅や瞑想ですわっている時は、「雪だるま」から「しんしんとふりつづける雪景色」に、自分の体がもどったような感覚になります。

 

この感覚は「脳内で想像(妄想)している雪の映像」とはまた違います。

 

脳内妄想の場合、「その時、体で起きていること」とは無関係にイメージだけをひろげていくことができます。これはあくまで「いま体で起きていること」を(意識を道具に)なぞる過程でみえてくる感覚です。

 

人の手でかためられ、かたちづくられた「雪だるま」から、ひらひら舞い落ちる無数の雪へ。それが瞑想でも坐禅でも、すわっているときの体の感覚は、そのようにかわっていく。

 

ふだんの自分は、骨格と筋肉でできた堅牢なオリの中に、ギュッと心をとじこめているんだなあと実感します。

 

毎日すわる時間をもつことで、体の感覚のモードを「堅牢なもの」から「風通しのよいもの」に一時的にきりかえる。

 

そうすると、いつも体の中にとじこめられている心が、ひろがりはじめていきます。

 

はっきりとは自覚できなくても、「なんとなくすっきりはする。。。」くらいのあいまいな感覚でも、起きていることは同じことなので、坐禅でも瞑想でも、やっている人はつづけてください。これからはじめてみるのも、とてもよいと思います。

 

おそれや不安というものは、今ある情報だけを材料に、頭の中だけで考えつづけていくと、思考の迷路の内側へ内側へと進んでいくものだと自分の経験から思います。その行きどまりで動けない状態が「鬱」とよばれる状態であったり、そこから無理やり脱出しようとする試みが「発狂」や「自殺」なのかな、とも思います。

 

とくに今は、共通のおそれや不安というものを、世界規模で、同時に経験しているから、(そういう経験って、これまでしたことがなかったから)、人々の多くが多かれ少なかれ、その影響を受けているのだと思います。個人的な悩みや、ある地域や民族に特有の問題ではなく、「人類としての危機」みたいな集合意識が形成されている。まだ解決策もなく、封鎖などの措置もあり、逃げ場のない気もしてくる。

 

おそれや不安の原因となるできごとが取り除けなさそうな場合、とりあえず、体と心だけでも、らくにしておく。

 

起こるできごとや、そこからうけとる情報はおなじものでも、受け止めかたがちがってくるし、かかる負担も軽減されると思います。

 

こころを体に閉じこめない。悩みは脳みそに閉じこめない。わきあがってくる様々な想いを、外へ外へと流していくことで、ずいぶんらくになるはずです。

 

自分発、で生きていく。

気分というのは明るいものであれ暗いものであれ、人々の心に「共鳴」を起こすところがあります。前回の記事では、いま世界を騒がせている新型ウィルスにかけて、人々の間で恐怖心が「感染」していると表現しました。それは一種の「集団ヒステリー」であるとも。そして坐禅や瞑想は、それらに対する予防法になるとも。

 

坐禅や瞑想といってもさまざまな流派や方法があると思うのですが、共通しているのは、ある決められらた形をとり(脚を組んですわるとか)、何か対象を決めて、そこに繰り返し気持ちをむけていくこと(呼吸の出入りをみるなど)だと思います。

 

ひとつ動かないところを作っておいて(すわる)、動きつづけるもの(吸う息、吐く息)に気持ちをむけつづける。そうして自分自身を定点観測するんですね。

 

土台となる「動かないところ」とは、まずは自分の体です。だから大きな怪我をしていたり、体調がものすごくわるい時などは、その土台をつくることもできません。脚を組んですわるにも、それなりの体力が必要です。

 

もう一方の「気持ちをむける対象(動きつづけるもの)」には、呼吸の出入り、数(ひとつふたつと数える)、体の一部(鼻先とか下腹部とか)、ロウソクの炎、目の前の壁、マントラ(「オーン」などの宗教的音韻)、シンボル(神仏などの象徴的図像)、特になし!(特定の何かではなく、なにもかもに気をむけることができている)など、さまざまなものがあります。

さまざまなものがあるのですが、むけている気持ちと、その気持ちをむけている主体は、対象がなんであれ、いつだって同じものです。

 

見えているもの、聞こえてくるものがなんであれ、「それらを見聞きしている主体」はいつも同じなのです。けして変わりません。

 

見るものが違っても、まわりが騒がしくなっても、心はコロコロ変わっても、決して変わらぬ同じところから、みたりきいたりしています。東京にいても、大阪にいても、外国に行っても、変わりません。

 

だから人って本当は、つねに自分発、なんですよね。私たちはいつも自分から、気持ちや意識を全方向に発信して、色、音、においなど、さまざまな対象を認識しているんです。寝て、起きて、そうして世界ができていく。

 

朝、目がさめる時、まぶしい光がさしこんできたり、鳥たちの声が入ってきても、(自我の感覚としては「光が目に、音が耳に、入ってきた(向こうから来た)」と受動的ですが)、その「光や音の通り道」となる意識を、まずは自分から発信しているんです(自我から、ではありません。いつも「オレだよオレ!」と自己主張している自我、エゴ、自意識は、この段階ではまだ寝ぼけてます...zzz ややあって、意識がとらえた光や音をみてから「オレは見た! オレが聞いた!」と一番乗りを自称するのです。やれやれ。。。

ここでの「自分」とは「意識の根源」のようなもので、それを体験的にしっていくのが坐禅や瞑想の試みです)。

 

眠りの深い闇からさめ、ふたたび(五感や自我をふくむ)意識を全方向に発信しているから、そこを通って、光や音も「やってくる」ことができているんです。

 

人はみな自分発で意識をひろげて、世界を認識しています。「あたしはいつも受け身〜」な人も。「まわりに流されやすいんですぅ」とおっしゃる方も。それは自我や性格が受動的なだけで、おおもとの意識は、誰もが自発的です。人だけでなく、生きものは皆そうでしょう。

 

だからたとえば1日5分瞑想するなら、それは5分間の「自分発」の時間をもつことになります。15分なら15分、1時間なら1時間、坐禅や瞑想を行うことで、「自分発」の時間、つまり自分から意識が発信されて、まわりの世界を認識していく(そしてそのプロセスをつぶさにみる)時間をもつことになります。

 

そのとき認識される「まわりの世界」には、「私の体、私の心」の感覚もふくまれています。

 

ぐぐーぅっと腹の底から持ち上がる力につられて伸びる背骨。ドクン!と脈打つ仙骨のあたり。びりびり、ちりちり、微弱な電気のように、そこここを走る血流。

 

たっぷり風呂釜に沸いたお湯をかきまぜるように、全身が液体や気体のように循環しているのを感じます。それは血液かもしれないし、神経の電気信号かもしれないし、「気持ちと生命力がまざりあったもの?」が流れているようでもある。

 

想いや記憶、さまざまな感情のうごきも、身体感覚とごっちゃになって流れだします。

 

想念や感情もやはり微弱な電気のように、ちりちりぴりぴり走っています。大きなものは、かたまりのようです(熱をもった毛糸の球みたい)。不思議なもので想念は、体の内側だけでなく、外側からもやってきて、くんずほぐれつ、「私の心」を形成していきます。ということは、心は体の外側にもあるのか!?

 

身体感覚、想念、感情、記憶。それらを全部ごった煮にしたエネルギーのような感覚。ドロドロの寄せ鍋のように赤黒く濁っていきますが、ある時点でウソのように清冽にすみわたります。すーっとすっきり、全身の意識が明瞭になります。ピカピカにみがいたガラス窓のように、そこから見える世界も晴れやかになります。

 

 

体も心も、じつは「一番ちかいところにある世界(の一部)」なんですよね。意識の奥からみていくと。「オレの一部」である前に「世界や自然の一部」なんです。

 

そのように自分自身を定点観測していくと、かすかな息の乱れや、体や心のわずかな違和感にも、気づくようになっていきます。

 

そして息や体が、つねに循環しながら、みずから均衡を保とうとする様子もわかってくるので、(自我をもってそれに逆らう行動をしないかぎり)心身の調子を大きく崩すこともなくなっていくように思います。

 

坐禅や瞑想には「場を平らげる」ような力があると思います。荒れる波の大海に、呼吸で錨(いかり)を深くおろし、プカプカ浮いていられるような。波がおだやかになるまで、ずっとそこで浮いていられる。

 

ふかく落ち着いていれば、ものごともよくみえ、浮足立つこともなくなります。

 

必要のない情報や、集団ヒステリーの死の風も、右から左に吹きぬけていきます。

 

「自分発」の順番で世界とかかわっていけば、人の意見や社会の空気に、左右されなくなるものです。表面上の変化に惑わされなくなる。いちいち反応しなくなる。心の変化は、まわりの状況にも影響を及ぼします。「私の心」も「世界の一部」なのですから。

 

「ウィルスこわい」や「〇〇国の人、だいきらい」といった集団ヒステリーも、落ち着いて見られるようになると思います。無視したり、上から目線で逃げるのではなく。「渦中にありつつ、巻き込まれてはいない」みたいな、ぎりぎりの心構えで事にあたれるようになる。

 

 

文明や人々の心がどんな方向にむかっている時でも、自分にとって一番近しい「息」や「体」に慣れ親しむ時間をもち、そこから一日を始める。基本的な安心感がちがってきます。

 

息や体って、人が作ったものじゃないんですよね。もともと自然にあるもので、どこまでも人工物である文明や、どうしても近視眼的になる人間の考えでは及ばない、大きな流れのなかにあるように思えるのです。そして坐禅なり瞑想なりを毎日おこなうことで、その恩恵にあずかれるものだと、僕は思っています。

うがい、手洗い、治る力

5〜6年前から毎日やるようになった帰宅後のうがいと手洗いのおかげか、もう何年も風邪らしい風邪をひいていません。当時お世話になっていた声楽の療法士さんにすすめられて始めました。

その方も昔はしょちゅう風邪をひいていたのだけれど、うがいと手洗いをするようになって、全くひかなくなったとおっしゃっていました。僕も最初は半信半疑というか、うがいと手洗いにそんな効果があるとは思わなかったのですが、それからというもの本当に風邪をひかなくなったので、「うがい手洗いすごい!」と今ではすっかり信用しています。

 

一番の大きな収穫は、それまで「風邪をひいたら薬を飲んで治す」と思っていたのが、「うがいや手洗いで風邪は防げる」との発想に変わったことだと思います。

 

「薬が病気を治す」わけではないですしね。「治る」のはあくまで体がしていることで、薬はその手助けをする補助的なものです(狂犬病のような、ヒトの生来の免疫だけでは治癒しない病気には、ワクチンの助けが不可欠です。抗生物質やワクチンは偉大な発明で、薬や西洋医学を否定しているわけではありません)。

 

それでもやはり、特効薬に頼る前にまず予防だと思います。「病気は予防できる」と知ること。うがいや手洗いなどでウィルスなど異物の侵入をふせぐことはできるし、また自分の体にも「免疫」や「解毒」といったはたらきがあります。異物や毒素がまぎれこんでも、僕らの知らないところで、やっつけたり、ばらしてくれたりしている。

 

自分の体にそなわっている「治る力」や「平らげる力」を正しく知り、信頼することも、病気をふせぐうえでとても大切だと思うのです。外側のなにかに、すぐ頼るのではなく。

 

そこのところがぐらついていると、ちょっとしたことで不安になり、慌てふためいてしまう。誰かがいいと言ったことに右にならえで飛びつき、流されていく。もしその情報が違っていたら、どうするのか?

 

おかげさまで僕は今のところ、咳も発熱も頭痛もなく、元気ですごすことができています。今まで通りうがいと手洗いをしておけば、まあ大丈夫だろうと思っています。過信は禁物ですが、基本的に自分自身の「治る力」を信頼しています。

 

ただ自分の体は元気でも、新型のウィルスは人々の「気分」にも集団ヒステリーのように感染しています。それも今までにない世界的な規模で。

 

ウィルスの二次被害で、ドミノ倒しのように経済も行政も人心もバタバタたおれていくと、なかなか逃げ場はない気もします。僕も風邪はひかなくても、このさきなんらかの経済的なダメージや、パニックから派生した人災の影響をこうむることになるでしょう。

 

だからこそ「ウィルスこわい」の気分には感染したくないのです。今はおびえる時ではなく、予測のつかない変化と臨機応変につきあう時だと思っています。

 

世に蔓延する「恐怖心の感染」を予防するのに、日々の坐禅や瞑想は有効だと思っています。毎日のうがい手洗いで、風邪が防げるように。次の記事で、そのことについて書きます。